【よくある指摘】 フィリピン独立法によってアメリカは独立を約束していたから、日本の『アジア解放』は無意味
【反論】 フィリピン独立法もあくまで宗主国の利益が目的であり、また大東亜共栄圏はフィリピンだけではない
フィリピンは、1934年のフィリピン独立法によって、1946年にアメリカから独立できた可能性は高い。
しかし、その背景は、フィリピンからアメリカへの農業輸出が無関税であったため、アメリカ国内の農業を保護するための植民地放棄論が発端であり、
フィリピン独立法のきっかけは「植民地支配は悪いことだから解放すべきだ」といった善意ではない。(経済目的という意味では大東亜共栄圏も同様であるが)
フィリピンの農業輸出は8割をアメリカに依存していた。とりわけ全輸出の4割以上が砂糖であり、国際競争力が弱く99.9%はアメリカ依存であったため、関税をかけられた場合の対応をどうするか、課題を抱えたままであった。
また、マレーシアを支配していたイギリスや、インドネシアを支配していたオランダなど、とりわけ資源の豊富な地域も同様に
独立させる動きがなければ、フィリピン独立法だけを取り上げて「太平洋戦争(大東亜戦争)のアジア解放という目的は無意味であった」とする言説を覆すことはできない。
また、フィリピンも独立にあたって日本の支援に期待していなかった訳ではない。
いずれにせよ、フィリピンや自治領化が検討されていたビルマだけを例に挙げて「戦前から東南アジア全域に独立の潮流があった」とするのは極論である。
独立後のアジア各国の首脳たちの言葉も、日本占領下のアジアを評価するにあたって、一考すべきである。
参考(別ページ):大東亜戦争(太平洋戦争)を評価したアジアの首脳たち
勿論、フィリピンについては、アメリカ当局の現地の教育や報道姿勢も相まって親米派と親日派に分かれ、抗日ゲリラとなって日本軍に抵抗し、様々な悲劇を生んだことは事実であろう。しかし、太平洋戦争(大東亜戦争)を称賛するアジア各国の首脳たちの声を無視して、戦闘時の悲劇だけをもって太平洋戦争(大東亜戦争)における日本の行いを断罪することも、歴史の大きな流れを見る上では極論といえる。
【引用】
『フィリピン独立戦争と日米比関係』(慶應義塾大学法学研究会 平間洋一)
アメリカ植民地統治当局は、フィリピン人の日本に対する期待を打破しようと、教師には日本を信頼しないよう教育することを要求し、反日的記事を書く新聞を支援し、新聞は日本の植民地となった朝鮮や台湾の過酷な住民の生活や、日本の高圧的な植民地政策を繰り返し報じた(中略)。初代大統領のケソンも、日本脅威論は独立反対派論者の陰謀であると公言していた。 (中略)ケソン大統領はダバオの日本人はフィリピンに何ら被害を与えていないばかりか、フィリピンの発展に不可欠であり、また日本人には学ぶべきところが多いと反論する(中略)このように、フィリピンでは独立に関しては、常に日本に対する期待があった。
『フィリピン独立戦争と日米比関係』(慶應義塾大学法学研究会 平間洋一)
アメリカ植民地統治当局は、フィリピン人の日本に対する期待を打破しようと、教師には日本を信頼しないよう教育することを要求し、反日的記事を書く新聞を支援し、新聞は日本の植民地となった朝鮮や台湾の過酷な住民の生活や、日本の高圧的な植民地政策を繰り返し報じた(中略)。
【引用】
『アメリカの鏡・日本 1948年』(ヘレン・ミアーズ著)
日本は現地住民に独立を約束した。それだけでなく、独立を保障する具体的行動を進めていた。 1935年にはすでに、満州での治外法権を放棄していたし、1940年には中国に正式に約束し、1943年には中国政府に租借地を返還した。大戦中日本は、実際に、占領した全ての地域に現地「独立」政府を樹立していった。
例えば、フィリピンは1943年10月14日に「独立」を獲得している。
これは米国が二度目にフィリピンを「解放」する数年前のことである。
ビルマは1943年8月1日に独立した。
マレー、インドネシア、インドシナに現地政権ができた。
マレーではインドの代表的指導者、チャンドラ・ボース率いる自由インド臨時政府が樹立された。
ボースは英国に宣戦布告し、インド人部隊を編成して日本軍と共にインド進撃を目指した。
今日、インドの代表的指導者の中には、英国の政治的撤退を早めたのは、真に平和を願う指導者の長く実りのない平和的手段ではなく、ボースの隠然たる脅威、「忠誠心のない」英印軍、そして日本軍だったという人もいる。
こうして各地で独立を宣言した植民地政権を、西洋列強は法的擬制と呼び傀儡と言う。
しかし、フィリピンを例外として、これらの政府に参画した現地の人々が、戦争の最中でさえ、過去のどこの同じような現地政権より権威をもっていたことは事実である。
『アメリカの鏡・日本 1948年』(ヘレン・ミアーズ著)
日本は現地住民に独立を約束した。それだけでなく、独立を保障する具体的行動を進めていた。 1935年にはすでに、満州での治外法権を放棄していたし、1940年には中国に正式に約束し、1943年には中国政府に租借地を返還した。