南京事件と百人斬り競争

【よくある指摘】「百人斬り競争」の新聞記事が南京事件の証拠である

【反論】 毎日新聞が南京事件の証拠とされる百人斬り競争の記事を否定している

その記事では「歩兵第九連隊の向井敏明少尉と野田毅少尉のどちらが先に百人斬り競争を達成するか競争している」と報じているが、 1989年に報道した毎日新聞自身が「百人斬り競争は事実無根である」と認めている。

百人斬り競争報道の後も、253人、305人といった記事が出てくるが、そうなると「百人斬り競争」に関連する新聞報道は全て、読者の戦意高揚を意図した創作であると判断するのが妥当である。

さらに、所属部隊は1937年12月12日に麒麟門(南京城の門名ではなく、南京城門外、東部の地名)東部で行動を止め、南京には入城しなかったことは、富山大隊長が証明書で証明している。


軍事法廷の際、向井、野田両氏が「部下を証人として出廷させて欲しい」と希望したことは、「現場に居合わせた人間なら無実を証明できる」自信があったということある。

また、向井少尉、野田少尉ともに、百人斬り競争を理由に死刑が確定した後も、遺書では捕虜も民間人の殺害も否定している。

これは主観に過ぎないが、両名は処刑を天命として受け入れ、日中友好を願って死んでいった。 規律の厳しい陸軍にあって、死刑すら「天命」と受け入れる将校が、民間人を不当に殺害するばかりか、遺書にまで嘘をつくことに耐えられる精神性なのかは甚だ疑問である。

しかしながら、百人斬り競争に関して、戦後、様々な情報が出回り錯綜しているのは事実である。

望月五三郎氏は手記『私の支那事変(私家版)』に、野田少尉が非武装の一般農民を斬ったこと、中国人を見つければ向井少尉と奪い合いをするほどエスカレートしたことを記している。

このような、当時であれば軍法会議ものの出来事を手記にして1985年にもなって出している時点で信憑性は疑わしいが、南京事件に関しては、元日本兵の中にも、虚偽の証言をする者が多数おり、 とりわけ発信の時期が文革以降のものは、史料としての信憑性が薄い。

例えば、秦郁彦氏も、1991年に野田少尉が「実際には捕虜を斬ったのだ」する北之園陽徳氏の証言などを集めているが、 秦郁彦氏は、中国共産党の機関誌や、国民党の顧問であるベイツ、蒋介石政権から利益を得ているジョン・ラーベの上申書を基に、南京事件の犠牲者5~6万人という見解を出しており、 信頼に値しない情報を拠り所にしているのである。

尚、中国戦線において日本兵が民間人や捕虜を1人も殺害していないとは断定できないため、そのような研究は別途やればよいと考える。

少なくとも、この記事は「南京で数十万人規模の民間人が虐殺がされた」とする南京事件の趣旨とは異なる。

【引用】
『昭和史全記録』 (毎日新聞社)

この記事は当時、前線勇士の武勇伝として華々しく報道され、戦後は南京虐殺を象徴するものとして非難された。 ところがこの記事の百人斬りは事実無根だった。 向井少尉はこのとき手足に重傷を負っていた。 東日記者に会ったのは南京の手前で、冗談に「花嫁を世話してくれ」と言うと「天晴れ勇士として報道されれば花嫁候補はいくらでも集まる」とこの記事になったという。 向井は47(昭和22)年4月、東京軍事法廷に召喚されたが、新聞記事は事実ではないと釈放。2カ月後、再召喚され中国軍事法廷に立たされ「百入斬りの獣行により日本女性の欲心を買わんとしたことは現代人類史上聞いたことがない」と死刑の判決。ふたりは、48(昭和23)年1月28日、南京雨花台刑場で銃殺された。