韓国併合時代の提岩里事件

【よくある指摘】 提岩里事件で一般の韓国人が虐殺された

【反論】 提岩里事件は平時の逮捕・起訴ができる状況ではなかった

【補足】
提岩里事件については、日本軍による正当防衛との言説もあるが、2007年に岩波書店から当時の朝鮮軍司令官 宇都宮太郎の日記が刊行されており、 正当防衛ではないとする説が有力となっている。 (2007年にもなって、岩波書店からこのような日記が刊行され、朝日新聞がこれ見よがし報道している経緯から信憑性に 疑問符が付くが、)内容に矛盾はなく、日記は事実であるという前提で反論する。

提岩里事件とは、三一独立運動における暴動鎮圧にあたった有田俊夫中尉が、首謀者である天道教、耶蘇教の信者の18歳以上50歳以下の男性32名を射殺した事件である。

まず、提岩里事件が発生した当時、街がどういう状況であったかを踏まえる必要がある。

提岩里事件に対し、総督府の憲兵隊司令官 児島惣次郎は上司に次のように報告している。
【引用】
提岩里事件に対する総督府内の報告(児島惣次郎)

まず当時の状況として〈三月下句、同地方では官公署の破壊焼却されたものが少くなかった。殊に花樹、抄江の両地では巡査を虐殺し、其の死体を凌辱した。また当地在住の内地人の被害頻々として起こり、民心の恐慌・憤怒一時其の極に達した。発安場に於いては三月一二一日、市の日に際し、約一〇〇〇名の暴民が大極旗を押立て路上演説をし、内地人家屋に投石暴行し、終に白昼小学校に放火して高唱する等の暴行を行った。翌四月一日晩より発安場周囲の山上八○余箇所にかがり火を焚き、内地人の退去を迫った。その為、内地人婦女子四一二名は幾多の危険、困難を排し三里離れた三渓里に避難した〉。
このような物情騒然の中、〈有田中尉は、同地方騒擾の根源は提岩里における天道教徒並に耶蘇教徒であるとの事を聞き、この検挙威圧の目的で・…:中略……提岩里に到着すると、巡査補に命じて天道教徒及耶蘇教徒二〇余名を、教会に集合させた。そして先回の騒擾及将来の覚悟について、二、三質問している問に、一人が逃亡しようとしたので、これを妨げようとしたところ、他の一名と共に打ち掛ってきたので、直ちに之を斬棄てた。この状況を見て、朝鮮人全部が反抗の態度に出て、その一部は木片または腰掛等を持って打ちかかってきたので、直ちに外へ逃げ出て兵卒に射撃を命じ、殆ど全部を射殺するに至った。此混乱中、西側隣家より火を発し、暴風のため教会堂に延焼し、遂に二〇余戸を消失するに至った>

この報告を見た限りでは、提岩里事件は正当防衛による射殺と捉えられるが、提岩里事件の真相は異なる。

そもそも、提岩里事件において、被疑者たちの人数の方が多かったとはいえ、銃を向けられている状況で放火などする余裕があるだろうか。 被疑者たちの選択は、降伏か、逃げだすか、棒や椅子で日本兵を攻撃するかの三択ではないかと思われる。

当時の朝鮮軍司令官 宇都宮太郎の日記によると、提岩里事件の際、重役と協議をして「虐殺・放火は認めず、やむを得ない殺害と失火であるということにする」旨を決定したと記載されている。
【引用】
宇都宮太郎 朝鮮軍司令官の日記(岩波書店)

即ち中尉は同村の耶蘇教徒及、天道教徒三十余名、耶蘇教教会堂内に集め、二、三、問答の末其三十二名を殺し、 同教会並びに民家二十余戸を焼棄せるの真相を承知す。児島警務総長(巡査、巡査補も参加せる故)も来会、 浄法寺師団長、大野参謀長、山本参謀と凝議、事実を事実として処分すれば尤も簡単なれども、 斯くては左らぬだに毒筆を揮いつつある外国人等に虐殺放火を自認することになり、帝国の立場は甚だしく不利益と為り、 一面には鮮内の暴民を増長せしめ、且つ鎮圧に従事しつつある将卒に疑惑の念を生ぜしむるの不利あるを 以て、抵抗したるを以て殺戮したるものとして、虐殺放火は認めざることに決し、夜十二時散会す。 (中略) 今周知の事を全部否認するは却て不利なる無らん乎、其幾分は過失を認めて行政処分にしても為し置く ことを得策にはあらざる乎とのことに、此夜大野をして前結審を遂行し度内意にて明日往訪せんとする意のあることを内談せしめしに、総督は矢張行セ処分丈は為し置を可とする旨復命せし

つまり、宇都宮太郎は提岩里事件に対して、正当防衛だったことは否定している。 そこで、提岩里事件の背景も知るため、提岩里事件の当事者である有田中尉の軍法会議の宣告も見る必要がある。
【引用】
有田俊夫中尉の軍法会議宣告(一部省略)

・1919年3月28日:水原郡沙江里において数百の群衆が蜂起して万歳呼号し、警察官駐在所を破壊し、巡査を惨殺。
・1919年3月29日:同郡烏山において約800名の群衆が警察官駐在所を襲って逮捕している暴徒の首謀者を奪還し、駐在所、役所、郵便所及び内地人の家屋を破壊。
・1919年4月1日:同地の小学校の校舎が放火され、付近の山上にある群衆がこれに応じて万歳呼号する。
・1919年4月3日:同郡長安面等の役所を破壊し、続いて花樹警察官駐在所を襲って巡査を殺害し、歯を抜き、耳鼻を切り、関節を折り、同所を破壊・放火するなど残虐暴戻を尽くし、付近七か所の面の群衆が発安里の市場を襲って内地人を殺戮した。

同市場を壊滅せんと提言した為に、内地人・朝鮮人共に戦慄し、内地人の老幼婦女40余名はことごとく避難してわずかに壮者9名が機銃又は日本刀を携えて残留して守備兵及び警察官らと共に日夜警戒に従事せざるを得ないこととなっていた。
朝鮮人巡査補が辞職を出願したりするなど、ほとんど無警察の状態に陥っていた。
有田中尉が発安里に来てみると、内地人が日夜警戒のために披露し、憔悴している状態を目撃したので、事態が重大であると察し、事が起こってから之を鎮圧しようとするのは彼らの術中に陥っていると考えた。
有田は、むしろ、すすんで首謀者たる耶蘇教徒及び天道教徒を殲滅し、且つその巣窟を覆して禍根を絶たんとするのが自己の任務遂行上当然執るべき最善の処置であり、受けたる訓示命令の本旨に適うものと確信した。この見解を同地の警察官に告げると、警察官も同意見であると応えたことにより、有田はいよいよその所信を固くした。


有田俊夫中尉の軍法会議宣告文

宣告文を見ると、提岩里事件の前、警察官も辞職して治安が機能せず、一般住民ですら通常の生活が送れない混乱状態の中で、有田中尉は暴動鎮圧の命を受けたことが読み取れる。

有田中尉は暴徒の首謀者が耶蘇、天道教徒と特定し、彼らをせん滅しないと事態は収まらないと判断し同地の警察も同じ認識であった。

そこで、被疑者を絞って教会に集め、尋問したところ教徒らを射殺した。

この経緯の問題として、提岩里事件で射殺した32名が尋問の際に何をしたのか、何もしていないのに射殺されたのか、尋問の結果クロと判断されたのか、 初めからクロという確信があったから確認せず射殺したのか、実は本当に有田中尉らに襲い掛かったのか(宇都宮司令官の日記からこの可能性は薄い)で提岩里事件の評価は分かれるであろう。

ここで「何もしていないのに射殺された」という前提で、有田中尉をあえて擁護するなら、
①当初、警察は温和に対応しており、暴動の首謀者と思われる者も釈放されてしまい、事態は悪化する一方であった。
これは宣告文の「警察官が穏和な手段をもって鎮定しようとしたが目的を果たさず、かえって良民を煽動し又はこれを脅迫し~」から読み取れる。

②警察すら機能していない大混乱の中で、被疑者を逮捕、起訴に至ることは不可能である。
被疑者を尋問するだけでは、現行犯で取り締まることはできない。証拠を確保して起訴するなどという平時の手続きを踏んでいては事態が悪化する状況であったことは①で述べた。

③有田中尉は犯罪行為を確認してから拘束するといったやり方では、暴動は止められず、事態は収められないと判断していた。
これは宣告文の「事が起こってから之を鎮圧しようとするのは彼らの術中に陥っていると考えた。」から読み取れる。

④呼び出しに応じない者を探して呼んでいたことから、有田中尉は容疑者の名簿を持っていた。(「堤岩里3・1運動殉国記念館の証言資料」より)
従って、提岩里事件で射殺された者たちは、尋問の際に自白していなくても、既に容疑が確定していた可能性がある。

つまり、提岩里事件とは、警察すら機能せず、一般の民衆にすら被害が及ぶ無秩序状態の 混乱の中で、「通常の逮捕・起訴では事態を収められない」と判断した現場の指揮官があらかじめクロである可能性の高い被疑者を絞り込み、射殺に至ったものである。

もし、名簿が単なる信教だけを記載したもので、提岩里事件で射殺された者が全員冤罪であったとしても、暴動を扇動し、警察による治安維持すら破綻するような破壊行為を繰り返してきた朝鮮人たちはどうなのか。

宇都宮司令官は事実を隠蔽しようとしたことは確かだが、提岩里事件で物的証拠もなく32名を射殺したとなれば、 益々暴動が激化することは目に見えていたし、現地では(日本への偏向報道しがちな?)外国人のマスコミ関係者が目を光らせていた。 (これは、宇都宮日記の「斯くては左らぬだに毒筆を揮いつつある外国人等に虐殺放火を自認することになり、帝国の立場は甚だしく不利益となり~」という記述から読み取れる)
(余談だが、宇都宮日記を報道したマスコミは「斯くては左らぬだに毒筆を揮いつつある外国人等に虐殺放火を自認することになり」の部分を意図的に削除している)

宇都宮司令官の判断を断罪することは簡単だが、日記からこの「提岩里事件における隠ぺい行為」は、日本の国益だけでなく、朝鮮の治安を慮ってのことと理解はできる。

当然、提岩里事件の前に「そもそも、韓国を併合した日本が悪い」「日本の統治の仕方が悪い」といった反論が返ってくるであろうが、韓国併合の経緯、日本の朝鮮統治がどういうものであったかは、 別のページで述べている。

予想される指摘(別ページ):韓国を併合した日本が悪い

予想される指摘(別ページ):日本の統治の仕方が悪い


また、「教会に集めて射殺せず、一人ずつ拘束すればいい」といった反論もあろうが、 当初の警察の対応を見るに、拘束したところで、証拠不十分で釈放することになったであろう。

尚、長谷川総督は「やりすぎである」として、全てを隠蔽することは拒否し、有田中尉は命令違反との嫌疑で軍法会議にかけられることとなった。

ここから分かることは、少なくとも提岩里事件は、 総督府または日本軍の意思として、独立運動の参加者を無差別に殺害したとする事件ではない。

繰り返し述べるが、 提岩里事件については、暴力・破壊活動が極限に達し、一般民衆が通常の生活を送れなくなっていたという切羽詰まった状況(背景) の中で起きていることを考慮すべきである。

現代の日本人の感覚や平時の常識で提岩里事件を見れば、「隠ぺい」「虐殺」といった言葉のイメージだけで、たちまち善悪の判断力を失ってしまうため注意を要する。

現代人の中には、必ず「非常事態なら虐殺してもいいのか」といった指摘をする者がいるが、少なくとも有田中尉は(証拠なく射殺していた場合)「問答無用で射殺しなければ、事態は悪化する」という状況判断をしたということである。

逆に、やむを得ない背景があったとしても、日韓とも「お互い様」といえる事件であり、我が国の行いの全てを正当化する余地はなく、提岩里事件で冤罪であった者がいた場合、本人の無念と遺族の悲しみは計り知れない。そこは配慮する必要がある。