満州事変

【補足】
満州事変について、柳条湖事件は関東軍の仕業であり、あくまで日本の国益のために満州全土に進出したことは事実であるという前提で進めます。
但し、「関東軍による自作自演」の根拠も、戦後、花谷正という軍人の証言を秦郁彦という学者が取り上げたことが大元になっており、信憑性に疑問符がつくにもかかわらず、 既成事実化されていることを補足しておきます。

【よくある指摘】 満州事変は中国への侵略行為

【反論】 満州事変の舞台である満州(中国北東部)はもともと中国(支那)の領土ではない

満州は当時の中国(中華民国)の領土ではないため、そもそも満州事変を中国の侵略と呼ぶこと自体が誤りである。

満州は歴史的にも中華民国(中国(支那))の領土とはいえない。

古来より中国(支那)は万里の長城を築き、 満州を中国(支那)の主権の及ばない地方としていたばかりか、関わりを持ちたくない「化外の地」とし、他民族が侵入しないようにしていた。

辛亥革命後、中国(支那)の国名は、一応は中華民国であるが、北洋軍閥政府、南方革命政府、自治勢力など、複数の政府が乱立する軍閥割拠の時代が続いていた。
(単一政府による全土の統治を受けてきた日本人には、これが理解できない)

1928年に国民党の蒋介石が張作霖政権を倒したことで中国大陸を統一したが、その中に満州は含まれていない。

張作霖は1917年4月30日に独立を宣言しており、満州は事実上、張作霖(中国大陸に複数存在した軍閥のひとつ)の支配下にあった。 むしろ張作霖が中華民国を打倒しようとしていた。


中華民国が成立する前の清国は、満州人の国であり、中国大陸を支配していたが、その清国から独立を勝ち取った中華民国が満州まで支配するというのは、 併合された朝鮮が日本から独立して、朝鮮半島だけでなく、日本本土も領有してしまう理屈になる(これも日本人には理解することが難しい)。

【よくある反応】 清の支配が長く、満州を中華民国の領土ではないとするのは不適切

【反論】 辛亥革命の指導者は満州を領土と認識していない

孫文は「清の植民地から独立したい」と願っており、辛亥革命の指導者たちは、もともと満州を中華民国の領土とは認識しておらず、 満州人を異民族と見なして清国打倒を目指し、日本に満州の割譲や売却を交渉していた。

つまり、満州は中国(支那)とは別物と認識していた。

中華民国建国当初は、清朝と協定を結び、清の皇帝は皇位を廃止せず、『外国の皇帝として』その存在を認めた。

ところが、2年後の1914年に大統領令で一方的に協定を廃棄し、中華民国の国民であるとして皇帝の地位を奪い、財産を没収して内戦の戦費に当てている。

このような経緯から、当初、中華民国が満州に関心を持っていなかったことは、満州事変後、リットン調査団も報告書の中で認めている。

張作霖は「中華民国政府から満州に派遣された行政長官」などではなく、馬賊から軍閥に成り上がった一勢力にすぎない。

【引用】
『ノモンハン事件の真相と戦果――ソ連軍撃破の記録』(小田洋太郎・田端元)

清国衰弱と共に満州には多くの中国人が流入し、日本の後援を受けた張作霖が独立国とした(張作霖、張学良が満州の民衆を搾取していた実態や、張作霖の度重なる危機を関東軍が救った話は古野直也氏著の近著「張家三代の興亡」が好著である)。張作霖父子は中国征服に乗り出し、20年先の税金まで一般人から取り、日本や朝鮮人にも法外な税金を徴収したり、土地、会社などを没収したりしたので日本に対する忘恩行為と言われたが、特に朝鮮人は虐待された。

【よくある反応】 満州事変は日本の都合による一方的な行為に変わりはない

【反論】 満州事変の際、満州では日本の支配を望む声があった

満州事変当時の中国大陸は、様々な「自称」政府(軍閥)が、その地域の住民に圧政を敷く、いわゆる内乱状態であり、 満州も馬賊・匪賊が跋扈し、暴力、略奪が慢性的に起こる非常に治安が悪い状態にあった。

そのため、満州では独立運動の動きもあった(保境安民運動)。 また、満州事変後の『紐育TIMES北平通信 1931.10.20』によれば、日本の支配を望むような声もあった。

張作霖の軍閥による圧政に苦しむより、日本による支配を望んだのである。

リットン報告書ですら、ロシア系住民が特に満州で迫害を受けており、満州事変を機に日本人による新政権に期待する声があると報告している。

もともと、日露戦争以降、日本は満州に産業を興し、鉄道を敷き、関東軍がある程度治安を守っていたこともあり、 (他の地域と比べれば)平和に暮らせる満州への人口流入は始まっており、辛亥革命当時の人口1800万に対し、満州事変当時では3000万に達していた。

そもそも、満州事変によって、僅か1万人の関東軍が広大な満州を支配することは不可能であり、 満州国が国家としての体を保つことができたのは、現地有力者の独立運動と、住民の支持があったからにほかならない。

結果的に満州国は治安・経済が安定し、毎年100万人の移民が流入する国家となった。満州が関東軍が暴力や圧政で支配するような国なら、このようなことは起こりえない。

逆に、当時の中国(支那)では暴力、略奪、飢餓が絶えなかったのだから、当然の結果といえる。

満州事変とは、柳条湖事件から張学良追放後、満州にいた連省自治派によって、新たな国家建設を望む声が高くなり、 満州国建国に繋がったというのが歴史の真相である。

現代の状況に例えるなら、日本が軍を派遣して、チベットを中華人民共和国から解放し、独立させたことと同様の解釈ができる。
(厳密には、日本の権益を守るという目的もあるため、見返りを求めない英雄的行動とは呼べないが)

満州事変は、中国(満州を支配していた軍閥)からすれば悪の侵略者でしかないが、倫理的・普遍的な「悪」と断定することはできないのである。

【引用】
『紐育タイムス北平通信 1931年10月20日』

寧ろ日本の支配を
数千の満州避難民の談話を綜合するに彼等は連盟の主張するが如き現状の回復を望まず。彼等の満州より避難し来れるは支那兵及び土匪の乱暴を恐れたるが為めにして日本兵を恐れたる結果にあらず。彼等は張学良の秕政に苦しむよりは日本の支配下に生活せんことを欲す。蓋し満州の支那軍閥は通貨を下落せしめ、人民の生産物を無価値の紙幣を以て強制的に買上げて外国の金貨に代へて巨利を収め、人民の租税は悉く軍隊の支払に充つる有様なるを以て、張学良の復帰を見るよりは寧ろ日本の支配下に新なる支那政権樹立せられんことを望むものなり。蒙古に対する支那の悪政は更に甚だしく、官吏は土地を押収し重税を課し人民を飢饉に陥れる有様にて人民は徐々に奥地に逃れつつあり。特に最近日本兵より武装を解除せられたる支那兵は蒙古に入込み掠奪放火を恣にし居る有様にて、蒙古人は支那の悪政より免がるる為め日本の支配を歓迎せんとする状態なり。

【引用】
『日本を呪縛する「反日」歴史認識の大噓』(黄文雄)

張学良の軍閥政権は後世の史家から「私兵を養い、軍費を捻出するための広大肥沃な満州の土地を荒らし、民衆の膏血の七、八割は軍費に当てられ、商民の三割はついに破産し流落した」と非難されているが、実際、満州の民は、満州事変で張学良の軍閥が関東軍に駆逐されたことに快哉を叫んだ。日本に感謝したというのが否定できない事実なのだ。

【引用】
『リットン報告書』

彼等の多くにとりては現在よりも劣れる条件を想像し能わざるを以て日本人を歓迎したるは尤ものことにして今や彼等の運命は新政権の下に開け行くべしとの希望を抱懐することは怪しむべきに非ず。
(苦しい生活を強いられていたロシア系住民が日本人を歓迎したのは当然で、彼らが満州国の統治に希望を抱くのも当然のことである)

【引用】
『リットン報告書』

問題は極度に複雑だから、いっさいの事実とその歴史的背景について十分な知識をもったものだけがこの問題に対して決定的な意見を表明する資格があるというべきだ。この紛争は、一国が国際連盟規約の提供する調停の機会をあらかじめ十分に利用し尽くさずに、他の一国に宣戦を布告したといった性質の事件ではない。また一国の国境が隣接国の武装軍隊によって侵略されたといったような簡単な事件でもない。なぜなら満洲においては、世界の他の地域に類例を見ないような多くの特殊事情があるからだ

【引用】
『イギリス産業連盟の使節団の調査報告 1934年』

満州国住民は治安対策の向上と秩序ある政府を与えられている。軍閥による略奪と摂取はなくなった。課税制度は妥当なもので、公正に運営されている。住民は安定通貨を持つことができた。輸送、通信、沿岸航行、河川管理、公衆衛生、診療施設、医療訓練、そしてこれまで不足していた学校施設などの設備計画が立てられ、実施されている。こうしたことから、満州国の工業製品市場としての規模と将来性は容易に想像することができる。近代国家が建設されつつある。将来に横たわる困難はあるが、これらは克服され、満州国と他の国々の利益のために、経済繁栄が徐々に達成されるものと期待される。