【よくある指摘】 韓国併合を推進した伊藤博文は極悪人だから暗殺された
【反論】 伊藤博文は韓国併合に反対していた
日本が韓国の自主的な近代化を求めても、近代化する様子を見せず、次第に併合賛成派が現れる中で、
伊藤博文は韓国は韓国人自身で近代化し、独立すべきだと考えていた。そもそも、資源に乏しく、未開の朝鮮半島を日本が統治することは財政的な負担が大きい。
しかし、そのような願いは叶わず、日清戦争後に独立を果たしても、一向に近代化する様子を見せず、李氏朝鮮時代の権力争いに明け暮れていた。
また、日露戦争が勃発すると、大韓帝国は中立宣言をしていたにも関わらず、高宗はこれを裏切り、ロシア側につく協定の交渉を進めていた。
(その高宗ですら、伊藤博文の韓国への思いは理解していたが)
このような経緯から、第二次日韓協約に基づいて、日本は大韓帝国の外交権を掌握することとなり、統監府が設置された。
(一部の人々は「第二次日韓協約で日本は外交権を剥奪した」と恨み節のように述べるが)
第二次日韓協約後の閣議にて(李完用)
わが国の外交は変幻きわまりなく、その結果日本は2回の大戦争(日清戦争・日露戦争)に従事し、多大の犠牲を出して、ようやく今日における韓国の地位を保全したのだから、 これ以上わが国の外交が原因で東洋の平和を乱し、再び危地に瀬するような事は、その耐えざる所~
(日本が日清戦争と日露戦争によって血を流し、ようやく韓国は領土を保全できたのに、これ以上、自分達の外交が原因で東洋の平和を乱すのは耐えられない)
伊藤博文は統監として赴任後、日本の血税から3,000万円を引き出し、道路・学校・水道・土木・鉄道・病院に充当した。 尚、土木工事は日本人に難しい作業をやらせた。
しかし、あくまで朝鮮を独立と近代化に導こうとしていた。 その証拠に、中央政府の大臣や地方長官には韓国人を採用し、日本人を部下に付けた。
『伊藤公と韓国』(原田豊次郎)によると、日本人記者を相手にしたハーグ密使事件(1907年)後の
高宗(大韓帝国皇帝)
日本に政治家多しといえども、伊藤のように世界の大勢を見て、東洋の平和を念じた者はいない。実に伊藤はわが国の慈父である
『伊藤博文の思い出』(エルウィン・ベルツ博士)
韓国人が伊藤を暗殺したことは、特に悲しむべきことである。何故かといえば、伊藤は韓国人の最も良き友であった。日露戦争後、日本が強硬の態度を以って韓国に臨むや、意外の反抗に逢った。陰謀や日本居留民の殺傷が相次いで起こった。その時、武断派及び言論機関は、高圧手段に訴えるべしと絶叫したが、伊藤ひとりが穏和方針を固持して動かなかった。当時、韓国の政治は、信じられない程、腐敗していた。伊藤は時代を理解し、正しい改革によって、日本統治が幸福である事を理解させようと勤めた。その為に、60歳を超えた高齢で統監という多難の職を引き受けたのだ。
『韓日合邦を要求する声明書』(一進会※) ※朝鮮人の会員は100万人(諸説あり)を有する
ドーハム・スティーブンソン(アメリカ人朝鮮外交顧問)
朝鮮の王室と政府は腐敗堕落しきっており、頑迷な朋党は、人民の財を略奪している。 その上、人民はあまりにも愚昧である。 これでは
ハリス博士(宣教師)
私の見るところをもってすれば、
【よくある反応】 伊藤博文は1909年には併合に賛成している
【反論】 伊藤博文が併合に傾いた理由は2つあると思われる
一進会は1909年12月4日、「韓日合邦を要求する声明書」を作成し、上奏文と請願書をそれぞれ李完用首相、皇帝純宗、曾禰荒助(そね あらすけ)統監に提出している。
曾禰荒助(そね あらすけ)自身も韓国併合反対派であり、この合邦案を時期尚早との理由で却下している。
しかし、一進会は上奏書を却下されても繰り返し提出し、4回目に桂首相の指示により受け取られた。
韓国では次第に併合に賛成する者が増え、西北学会も賛成に転じ、大韓協会も賛成派と反対派に分裂する事となった。
尚、一進会とは一般民衆を中心とした政治団体であり、韓国内で併合に反対していた者は主に皇帝高宗や、一般民衆を苦しめていた両班(特権階級)や儒者である。
【よくある反応】 伊藤博文が正しいなら、安重根に暗殺される訳がない
【反論】 韓国併合は両班にとっては都合が悪かった
韓国併合を巡っては、日本国内でも大韓帝国でも、賛成派と反対派がいたことに留意する必要がある。
朝鮮において、韓国併合に賛成していたのは主に一般民衆を中心とする政治団体であり、反対していたのは一般民衆を虐待していた両班のような特権階級や儒者であることは上で述べた。
安重根は両班であり、いわゆる地方貴族という立場になる。
近代化することで恩恵を受けるべきなのはどちらの層かを考えれば、自ずと答えが出る。