韓国併合と三一独立運動

【よくある指摘】 三一独立運動を弾圧した

【反論】 三一独立運動でテロ行為を鎮圧したが弾圧とはいえない

三一独立運動で取り締まりを受けたのは、独立運動そのものではなく、違法なテロ行為というのが歴史の真相である。

三一独立運動は、両班のような特権階級が共産主義者や、米国の宣教師に誑かされたキリスト教徒などと組んで暴動に発展した。

韓国併合以来、奴隷制度が廃止され、両班は農民等から搾取が出来なくなったことに不満を持っていたが、三一独立運動の指導者達は行動が過激であったため、人民の支持が得られず、国外へ脱出した。

三一独立運動で逮捕された人間は、「国家反逆罪」という罪状は一つも無かった。全て放火・殺人・強盗といった一般犯罪だった。また、提岩里事件のような異常事態を除いては、死刑になった者はいない。

被害状況は以下の通りである。

三一独立運動の被害状況(朝鮮総督府資料)
・死者553人
・負傷者1409人
・憲兵・警察官の死者8人、負傷者158人
・村役場の全壊19カ所(うち放火によるもの5カ所)
・窓硝子破壊、器物・書類の焼却など、村役場の一部破壊28カ所
・警察署・警察官駐在所・憲兵分隊・同分遣所・同駐在所については全壊16ヶ所、一部破壊29ヶ所
・郵便局の全壊2カ所、一部破壊9カ所

【引用】
崔基鎬(加耶大学客員教授)

独立運動の指導者は、非暴力を宣言しながら、それは口実であって、至る所で暴力沙汰が広がったではないか。それは公務執行妨害罪であり、騒擾罪に該当する。いわゆる独立運動なるものは、同胞に累を及ぼすような不法の中から生まれるものではない。朝鮮民族にとってそもそも独立とは何であろうか。三韓時代の昔から李朝末までに至るまで、常に支那の直接または間接の支配に甘んじ、朝貢を続けてきたのではなかったか。わずかに日清戦争後、(日本によって)「大韓帝国」の国号を建てたが、ロシアの勢力が強大になると、たちまちその方向になびいていった。

【引用】
『日韓併合 韓民族を救った「日帝36年」の真実』(崔基鎬)

「独立運動家を捜索して処断」とあるが、そもそも李氏朝鮮以来、独立国であったことはなかった。であるから、日本の統治を受けたからといって、突然「独立」を 言いだすのもおかしな話である(中略)当時の「独立」運動とは、李王朝への回帰を願った保守派の反動にすぎない。

【引用】
『朝鮮新聞』社説

宣教師の連中は古い朝鮮と現在の朝鮮を同じように考え、基督(キリスト)教徒の学校に入りさえすれば朝鮮人が言いたい放題自由だと考えている。彼らは<民族自決>に関するウイルソンの声明をたてに、宗教のかくれみのを使って民衆を煽動するのである。(中略)彼らの知識・性格・気質について良い事は何も言われていない。

【補足】
三一独立運動の暴動によって、朝鮮がどういう状況に陥っていたかについては、有田俊夫中尉の提岩里事件における軍法会議宣告が分かりやすい。

【よくある反応】 三一独立運動で7909名が死亡している

【反論】 死亡者7909名には根拠がない

『朝鮮独立運動之血史』(朴殷植)では、7909名が死亡したとされるが、 著者は当時上海に亡命しており、「死傷者数は伝聞によるものである」と本書で述べている。

【引用】
『「反日韓国」に未来はない』(呉善花)

三・一独立運動について、韓国の国史の教科書には、無差別の銃撃よって7509人が殺され、1万5961人が負傷させられたとあります。 総督府の資料では死者553人、負傷者1409人と大きく異なります。 また日本の教科書には5万人の死傷者が出たと書かれているものもあります。 北朝鮮の人が書いたものでは、村に火をつけて村民もろとも焼き殺したことまであったとあります。

総督府の資料は村ごと月ごとの事実関係を示して集計されたものです。 韓国の教科書のものは、上海にいた人たちが、新聞記事や伝聞を元に作った資料をまとめて翌年に出した書物(朴殷植『血史』)にある数字をそのまま引き写したものです。

予想される指摘(別ページ):三一独立運動以降は独立の気概があった

【よくある指摘】 治安警察法(保安法)で独立運動を弾圧した

【反論】 独立運動家の逮捕に治安警察法(保安法)は適用されていない

提岩里事件のような異常な状況下を除いては、三一独立運動で法を背景に逮捕された人間は、放火・殺人・強盗といった一般犯罪であったため、治安警察法で独立運動を弾圧したとはいえない。

予想される指摘(別ページ):治安維持法によって独立運動が弾圧された(朝鮮語学会事件)