南京虐殺(ぎゃくさつ)

【補足】
南京虐殺(ぎゃくさつ)については、あったとする資料と、なかったことを裏付ける資料が混在している。 この矛盾が存在する以上、いずれかが虚偽となる。 従って、両方の資料とそれに対する反証、当時の日本軍と中国軍がどういう軍隊であったか、事実を踏まえて南京虐殺を考察する。

尚、南京事件の第一人者である笠原十九司ですら、「民間人犠牲者数の公式な資料はない」としている。

但し『捕虜の処刑の是非』となると話が違ってくる。南京に潜んでいた便衣兵の割合(推定)から、「処刑された者は便衣兵である」とする辻褄の合う説明はできるが、「全員本当に便衣兵だったのか」を証明することは不可能である。

【よくある指摘】 南京虐殺(ぎゃくさつ)で30万人が虐殺された

【反論】 南京虐殺(ぎゃくさつ)があったとされる期間、南京の人口は増えている

南京虐殺があったとされる期間、日本軍が駐留していた南京には避難民が殺到して、1937年12月13日の人口20万人に対し、1938年1月14日の時点では25万人であり、 僅か1ヶ月で5万人増えている。

そもそも、火薬・弾・灯油などの物資に限界がある日本軍が中国の民間人を30万人も虐殺することは不可能である。

世田谷区より狭い南京で30万人規模の大虐殺が行われているなら、住民は一目散に逃げだすであろうし、そのような危険地帯に人が殺到することなどあり得ない。

南京の日本兵による殺人事件は、日本大使館に送られた報告書によると25名である。

しかも、その報告は中国人の単なる口頭によるものである。
(当時、日本兵に扮した中国人の工作員が民間人に対し、暴行・殺害などの残虐行為を行っていたという事実があることも考慮が必要)

また、現地にいた120人の日本人ジャーナリストや従軍カメラマンは誰も殺人事件を目撃しておらず、戦後になって南京虐殺について聞かされて驚愕している。

陥落直後の南京には、石川達三、大宅壮一、草野心平、西条八十、林芙美子らのジャーナリストや作家・文人がいた。 しかし、戦後になっても、「南京虐殺」を発表した者はいない。

それどころか、金陵大学病院医師のマッカラム氏は日記の中で、日本軍の規律正しさと支援に感謝している。

但し、南京にいた元日本兵による「虐殺は見聞きしなかったが、民間人のふりをした私服の中国兵(便衣兵)が市内に隠れて攻撃してきた。 彼らはジュネーブ条約で保護されていないので、上官は殺すことを許可した。」という話は存在する。

南京虐殺は、連合軍側を正義とする「政治的な意図」を除けば、このような便衣兵を射殺した事件を東京裁判で利用しやすいように誇張した話ではないかと思われる。

【引用】
『金陵大学病院医師マッカラム氏の日記及び手記』(法廷証第309号=検察番号246号、極東国際軍事(東京)裁判速記録:第210号)

(日本軍は)礼儀正しく、しかも尊敬して私どもを処遇してくれました。若干のたいへん愉快な日本人がありました。 私は時々一日本兵が若干の支那人を助けたり、また遊ぶために、支那人の赤子を抱き上げているのを目撃しました。

12月31日、今日私は民衆の群が該地帯から中山路を横断して集まるのを目撃しました。あとで彼らは、行政院調査部から日本軍の手によって配分された米を携帯して帰って来ました。今日は若干の幸福な人々がおりました。

(1月3日)今日は病院職員の半数の登録をするのに成功しました。私は若干の日本兵によってなされた善行を報告せねばなりません。 最近7、8名のたいへんに立派な日本兵が病院を訪問しました。私どもは彼らに病人に与える食物の欠乏を語りました。 今日彼らは若干の牛肉を見つけて、100斤の豆をもって来ました。われわれは一ヶ月も病院で肉なんか食べなかったので、これらの贈り物は大いに歓迎されました。彼らはわれわれに他にどんなものが欲しいかを尋ねました。

【よくある反応】 南京虐殺(ぎゃくさつ)の期間に人口が増えたのは南京市民が安全区へ逃げ込んだから

【反論】 日本軍が南京に入る前から住民は安全区にいた

日本軍が南京に入る前は、少数の外国人ジャーナリストと強盗を除いて、ほとんどの民間人は安全区にいた。

1937年12月13日に国際委員会が公式に「我々はほとんどの南京民間人を安全区に避難させた」と報告している。 また、日本軍が南京の安全区を攻撃しなかったことに感謝している。

【よくある反応】 人口統計などいくらでも捏造できる

【反論】 人口は国際委員会の統計である

南京の人口統計のソースは国際委員会の統計である。 また、その他の見解も20万人か、それ以下である。

雑誌LIFE: 15万人
リリー・アベック: 15万人
アベンド:10万人以上
劉啓雄少将:20万人
張群思少佐:10万人(非戦闘員)
松井大将:12万余

10万人~20万人と差が大きいため、「南京虐殺の前後で20万人から25万人に増えた訳ではない(誤差に過ぎない)」とする指摘は理解できるが、少なくとも南京虐殺があったとされる期間で人口は減少していない。

そもそも、民間人を数千人単位で虐殺すれば、市民は一斉に逃げ出すであろうし、戦後の東京裁判に向けた調査で市民から多くの証言が集まったはずである。

尚、人口についてはこちらで詳細に考察している。

(別ページ):南京虐殺(ぎゃくさつ)人口に関する考察

【よくある反応】 南京虐殺(ぎゃくさつ)では安全区に集まった人を郊外に連行して殺害した

【反論】 戦後の南京虐殺(ぎゃくさつ)に関する調査では現地の証言は集まらなかった

東京裁判の前に、中国側が南京の民間人に対し、日本軍による蛮行の被害報告を求めたが、否定する者、あっけにとられる者が大多数であり、 南京虐殺につながる日本兵の悪事を報告する者は殆どおらず、3か月の間に得られた証言は1件のみであった。

【よくある反応】 1件でも証言があるなら、南京虐殺(ぎゃくさつ)があったはずだ

【反論】 南京虐殺(ぎゃくさつ)に関する、その1件の証言も嘘と断定できる

南京虐殺の調査において、唯一得られた証言は、魯甦という人物の「夜間に57,418人もの人間が虐殺された」というものだが、どうやって夜間に1桁の単位まで 50,000以上の人数を数えることができたのか。

【補足】
本来であれば、この時点で、南京虐殺の議論は打ち切るべきである。

①住民は安全区に避難していて、その安全区の人口が増えた。
②1945年11月から3か月かけて現地調査を行い、日本兵による蛮行の証言は1つも出てこなかった。

この2点だけで、南京虐殺は宣伝工作に過ぎないとする見解が有力となる。この先の議論は、一つ一つの「宣伝工作」や揚げ足取り(「当時ティンパーリは国民党の顧問ではない」とか、 「ジョン・ラーベはジーメンスで武器を売ってない」といった本質とズレた指摘)で枝葉末節となる。

【よくある反応】 その後も調査し、南京虐殺(ぎゃくさつ)に関する500件の証拠を集めている

【反論】 南京虐殺(ぎゃくさつ)の裁判に採用できたのは4件である

500件というのは、現地の人々の証言ではなく、資料であるが、内容を精査した結果、採用できたのは僅か4件である。

明らかな矛盾が無い資料というだけで、これだけの苦労をしたのだ。

【よくある反応】 南京虐殺(ぎゃくさつ)の証言が集まらなかったのは、内戦で混乱していたから

【反論】 国共内戦の前に南京虐殺(ぎゃくさつ)の調査は行われていた

南京敵人罪行調査委員会が発足し、活動を開始したのは1945年11月7日である。
国民党軍の全面侵攻は1946年の6月であり、本格的に南京に戦禍が及ぶのは1949年からである。

【よくある指摘】 日本軍による虐殺事件は常に報告されていた

【反論】 虐殺事件は政治宣伝とみなされ、国際連盟にも相手にされなかった

中国は日本軍による民間人殺害を国際連盟総会で提訴していたが、親中派の国際連盟理事会でさえ、政治宣伝であるとして採択しなかった。

当時の国際社会は、中国をこのような「宣伝工作」をする国であると認識していたことは、念頭に入れる必要がある。(これは現代でも変わらない)


南京虐殺が国際社会の場で取り上げられるのは、東京裁判からである。

【よくある指摘】 アイリス・チャンが『ザ・レイプ・オブ・南京』で南京虐殺(ぎゃくさつ)を証明している

【反論】 提示されている南京虐殺(ぎゃくさつ)の写真に信憑性が無い

アイリス・チャンが出した「南京虐殺」の写真は専門家により出典元が調べられ、虐殺の証拠になる写真は1枚もなかったことが判明している。

アイリスチャンの本のソースの多くは「朝日グラフ」などの日本の雑誌の切り抜きである。

従って、日本での出版は嘘がばれるため積極的ではなかった。 アイリス・チャンは日本からの質問状に返答する事は無く、自殺してしまった。

尚、映画『南京!南京!』は、アイリス・チャンの『ザ・レイプ・オブ・南京』がもとになっている。

【よくある指摘】 本多勝一氏が南京虐殺(ぎゃくさつ)を証明している

【反論】 提示されている南京虐殺(ぎゃくさつ)の写真は誤用であると認めている

本多勝一氏も、アイリス・チャンと同様、南京虐殺とは関係のない証拠写真を採用しており、 人に聞いた話を「裏付け・検証なく」南京虐殺の証拠して採用していることを小林よしのり氏が指摘している。

そもそも、各国・団体の利害が複雑に絡む南京虐殺については、可能な限り一次資料から検証すべきであり、とりわけ文革以降に出てきた情報の信憑性は薄いと考えてよい。

【引用】
『ゴーマニズム宣言』(小林よしのり)

常軌を逸した朝日報道の中でも、最大の決定打となったのは昭和46(1971)年8月から連載された『中国の旅』だった。執筆者は本多勝一記者。これは本多記者が中国に出かけ、中国共産党政府が用意した「証人」に聞いた話を「裏付け・検証ナシ」でそのまま掲載したものである。「裏付けナシ」という、新聞記事の常識を無視した企画が新聞本紙、週刊朝日、朝日ジャーナル、アサヒグラフなど、あらゆる媒体を使って大々的に展開、翌年には単行本化され、ベストセラーになった。

【よくある反応】 本多勝一氏は南京虐殺(ぎゃくさつ)当時の「100人斬り」の新聞記事も証拠としている

【反論】毎日新聞自身が100人斬りの記事を否定している

【よくある反応】 他にも南京虐殺(ぎゃくさつ)の証拠写真が多数存在する

【反論】 提示されている写真に信憑性は無い

中国が示す南京虐殺の証拠写真は、撮影時期、出所、撮影者も不明で、季節が矛盾していたり、場所が南京とは違う場所である。

また、日本兵と称しているにもかかわらず、刀の持ち方が違う、軍服が違うなどの例も見られる。

日中戦争時は日本兵を装った中国人工作員もおり、大量の偽写真を撮っていた。

これらの写真はプロパガンダに使用されたため、現在では、いつ誰が撮影したのか不明な写真が多く存在する。

南京事件研究会会員の福永慎次郎氏は、南京虐殺の「証拠写真」の検証に取り組んだが、虐殺を裏付ける写真は1枚も見つからなかった。

そもそも、日本の大手マスコミですら、処刑された馬賊の生首の映像を南京虐殺の証拠写真として提示するような有様である。

「鉄嶺ニテ銃殺セル馬賊ノ首」とあるが、マスコミは上部の文字を切り取って報道している。

【よくある指摘】 南京虐殺を示唆する日記や証言が多数存在する

【反論】 それら南京虐殺を示唆する日記や証言は捕虜の処刑であり、合法か違法かについては意見が分かれる

【引用】
『第百十四師団所属の歩六六連隊第一大隊戦闘詳報 昭和12年12月13日』

午後二時零分聨隊長ヨリ左ノ命令ヲ受ク
左記
イ、旅団命令ニヨリ捕虜ハ全部殺スベシ、其ノ方法ハ十数名ヲ捕縛シ逐次銃殺シテハ如何

【引用】
『第16師団第30旅団長佐々木到一少将私記』

俘虜続々投降し来たり数千に達す、激昂せる兵は上官の制止を肯かばこそ、片はしより殺戮する。多数戦友の流血と十日間の辛惨を顧みれば、兵隊ならずとも「皆やってしまえ」と言いたくなる。

【引用】
『山田支隊山砲兵第19連隊第3大隊上等兵日誌』(黒須忠信上等兵)

午後一時、我が段列より二十名は残兵掃湯(掃蕩)の目的にて馬風(幕府)山方面 に向かう。二,三日前補慮(捕虜)せし支那兵の一部五千名を揚子江の沿岸に連れ出し機関銃をもって射殺す。その后銃剣にて思う存分に突き刺す。自分もこの時ばが(か)りと憎き支那兵を三十人も突き刺したことであろう。山となっている死人の上をあがって突き刺す気持ちは、鬼お(を)もひひ(し)がん勇気が出て力いっぱい突き刺したり。ウーン、ウーンとうめく支那兵の声、年寄りもいれば子供もいる。一人残らず殺す。刀を借りて首を切ってみた。こんな事は今まで中にない珍しい出来事であった。帰りし時は午後八時となり、腕は相当つかれていた。

上記のような記録も出回っているが、それに対して戦史叢書は正当防衛であるかのような記録になっている。

【引用】
『戦史叢書『支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで』

第十三師団において多数の捕虜が虐殺したと伝えられているが、これは15日、山田旅団が幕府山砲台付近で1万4千余を捕虜としたが、非戦闘員を釈放し、約8千余を収容した。ところが、その夜、半数が逃亡した。警戒兵力、給養不足のため捕虜の処置に困った旅団長が、十七日夜、揚子江対岸に釈放しようとして江岸に移動させたところ、捕虜の間にパニックが起こり、警戒兵を襲ってきたため、危険にさらされた日本兵はこれに射撃を加えた。これにより捕虜約1,000名が射殺され、他は逃亡し、日本軍も将校以下7名が戦死した。

南京虐殺に否定的な者でも、捕虜の処刑に関しては、ひとまずあった前提で議論しなければならない。但し、ここでいう捕虜の殆どが便衣兵であったことは推測できる。

【引用】
『東京裁判にみる誣告と事後法南京事件とA級戦犯』(立命館大学名誉教授 北村稔)

「ハーグ陸戦法規」に基づけば,軍服を着用し武器を公然と携帯して投降した戦争捕虜と,軍服を脱ぎ捨てたあと捕らわれた兵士との間には,扱いに差 異が生じます。軍服を着用していなかった場合や,指揮官のいない戦闘集団の戦闘員は戦争捕虜とはみなされず,処刑される可能性もありました。そし て南京を占領した日本軍は,軍服を脱ぎすて国際安全区に隠れていた中国人兵士を便衣兵(軍服を着用していない戦闘員)として処刑したのです。

南京攻防戦に先立ち行われた上海での戦闘で,中国軍側の便衣兵に悩まされていた日本軍の立場からすれば,激しい攻防戦に勝利して南京を占領した が,国際安全区に逃げ込んだ多くの中国兵たちは不気味な存在でした。油断すれば,いつ攻撃されるかわからないという恐怖心を持っていたはずです。したがって,隠れていた中国兵の摘発は当然の行為ですが,彼らを集団で処刑する行為の是非が国際法上の問題にされたのです

大阪学院大学経済学部名誉教授の丹羽春喜氏は,スマイス報告を統計学見地からの詳細に分析し,兵士の暴行により殺害された成年男子の中で,「独 身・単身者」が四十四,三%を占めている事実に注目しました。そして丹羽教授は,スマイス報告に記載されている一九三二年当時の南京市の住民調査 記録に基づいて,一九三八年春の南京市の成年男子中の「独身・単身者」は通常の状態であれば五,二%だと推算しました。その結果,南京攻防戦直後 に一時的に出現している四十四,三%という「独身・単身者」の異常に高い比率は,被害者の成年男子の中に本来の南京市民ではない多くの便衣兵が含 まれていた結果だという判断が下されます。いうまでもなくこの判断の背景には,当時の中国軍兵士の大多数が,「独身・単身者」の若者であったという事実が存在します。

処刑された捕虜の中にどのぐらい便衣兵がいたのかの正確な情報を掴むことは不可能だが、少なくとも便衣兵はハーグ陸戦法規上の捕虜の対象ではない。

また、以下の通り、"国内"においても支那事変での捕虜は通常の国家間の戦争とは別の扱いをしている。

【引用】
『支那事変海軍司法法規 昭和十四年三月』

陸軍省法務局にては、(中略)現下軍の羈絆内に在る支那軍人は、陸軍刑法又は捕虜処罰に関する件法律上、之を捕虜と解して居ない

ハーグ陸戦法規上の捕虜の定義の議論や、こういった解釈もあって、たとえ敗残兵でも処刑を違法と見なすかすら意見が分かれている。なぜなら支那『事変』であって国家間の戦争ではないからである。

しかし「正規軍が戦闘に参加している以上、支那事変は戦争じゃないから捕虜をどう扱おうが自由というのは屁理屈」という反論が返ってくるのは目に見えている。

この先は「支那事変は国家間の戦争なのか」「敗残兵の処刑はハーグ陸戦法規違反なのか。では、捕虜の定義とは?」といった議論が始まることになる。

この先は、「そこについては専門家でも議論が分かれる」となってしまい、決着はつかないであろう。

【よくある指摘】 「陸軍々人軍属非行表」に日本軍の犯罪が載っている

【反論】 どれが南京虐殺に関する犯罪なのか不明

中支那派遣軍憲兵隊司令部作成の「陸軍々人軍属非行表」なるものは、支那事変(日中戦争)全体の犯罪行為について集計しているものであり、 どれが「南京虐殺」に関わるものなのか不明である。

ここまで話が及ぶと「南京事件の定義」をはっきりすべきであろう。

何をもって「南京虐殺」と定義してるのかを明確にしたうえで議論していただきたい。

1つでも犯罪行為があれば「南京虐殺」と見なすのであれば、ほぼ確実であるし、「被害を受けたもの1000人以上、かつ組織的犯行」であれば、軍法会議で有罪となっていることから、少なくとも組織的犯行ではなく、南京虐殺とは別に論じられるべきものである。