日中戦争(支那事変)と二十一カ条の要求

【補足】
「二十一カ条の要求」とは

1915年5月9日、初代中華民国大総統である袁世凱は日本政府の「二十一カ条の要求」を受け入れた。
「二十一カ条要求」は第一次世界大戦中の1915年1月に日本が中国に提示した要求であり、以下の5号21カ条からなる。
(第1号)山東省のドイツ権益の日本への譲渡
(第2号)南満州および内モンゴル東部における日本の特権の承認
(第3号)漢冶萍煤鉄(かんやひょうばいてつ)公司※の日中合弁化
※中国の製鉄会社。一九〇八年に、漢陽製鉄所、大冶鉄山、萍郷炭鉱が合併して創立。日本の鉄鋼業に多量の鉄鉱石を供給した。
(第4号)中国沿岸の港湾・島嶼の他国への不割譲・不貸与
(第5号)日本人を中国政府の財政及び軍事顧問として招くこと

第1号~第4号は基本的に日露戦争で得た権益、第一次世界大戦の結果に沿う物であるが、第5号は踏み込んだものであり、日本側が秘密条項にすることを希望した。

しかし、中国側が暴露し、米国などから強く非難されることになった。日本は第5号を撤回したが、他の条項の受け入れを強く迫り、中国側は5月9日に第1号~4号条項を受け入れたが、中国の対日感情は悪化した。国民は要求を受諾した5月9日を「国恥記念日」と呼ぶことになり、 その後の抗日運動激化のきっかけとなる。

これが一般的な見解である。

【よくある指摘】 二十一カ条の要求こそ日中戦争(支那事変)の始まりである

【反論】 二十一カ条の要求の問題は袁世凱が起こしたものだった

まず、日中の歴史問題を語るにあたって、「そもそもなぜ起きたか」を検証せず、 一方的に日本が悪いかのような言説が多く見られる。

日本側の要求の本質的な狙いは日露戦争で獲得した満州における日本の権利の保護であり、これを守らない中国側の問題でもある。

そして、二十一カ条の要求を巡る日中の摩擦は袁世凱が起こした可能性が濃厚である。
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二十一カ条の要求の歴史について略述する。

多くの人は二十一カ条の要求を日本の中国侵略の現れだと思っている。もし、それが本当であれば、中国は日本の圧迫に対抗すれば良い訳である。

二十一カ条の要求の問題は中国側から起こったものである。袁世凱は二十一カ条の要求から意図的に過大な特権を日本に与え、日本に自分が皇帝になることを援助させようとしたのである。

当初、日本側は二十一カ条の要求を出すことを躊躇したが、外務大臣の加藤高明は袁世凱が二十一カ条の要求を呑むことを確認し、 秘密を守ることを要求し、日本側が二十一カ条の要求を提出するまでは内容を漏らすことを禁じた。

しかし、二十一カ条要求の提示後、新聞で報道され、中国国内はじめ外国や袁世凱の部下までもが反対した。

袁世凱は日本に対して二十一カ条の要求を堅持するよう求め、必要であれば日本軍を出兵して武力を誇示することを求めた。

そこで、日本は袁世凱の画策に従って中国に軍を派遣したのである。 当時、この暴挙に対し日本国内でも日本政府に対する世論は反発した。

一方、中国においては、袁世凱はあくまで日本の派兵は威嚇行為であるとし、中国人に自分を信じさせようとした。 すなわち、二十一カ条の要求を承諾しなければ、日本は武力を用いるとしたのである。この密謀は民衆は知りえなかったものである。

二十一カ条の要求を巡る当時の国内世論では日本政府の失態であるとし、加藤外務大臣は辞職した。

中国側においても袁世凱の周囲も二十一カ条の要求に世論も反対したが、袁世凱は強引に二十一カ条の要求の協定に調印させた。
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さて、学校の授業で「二十一カ条の要求」を習った我々には、上記の見解は歴史歪曲のトンデモ論に見えるが、上記は全て「孫文全集」の内容である。

【引用】
『孫文全集 1967年8月20日』(外務省調査部偏)編集兼発行人、成瀬恭第2編 講演及談話より抜粋

次ニ二十一箇条条約ノ歴史ニ付イテ略述スル。

二十一箇条約トハ何カ。多クノ人ハ之ヲ単ニ日本ノ中国蚕食(サンショク)ノ一ツノ現レデアルト思ツテヰル。之レガ若シ真ニ然ルナラバ、至ツテ簡単ナ問題デアツテ、一箇ノ統一国タル中国ガ、日本ノ圧迫ニ対抗スレバヨイ訳デアル。

然ルニ此ノ問題ハ中国人カラ起ツタモノデアル。即チ袁世凱ガ故意ニ日本ノ斯クモ過大ナル特権ヲ承認シ、之レガ代償トシテ、日本ヲシテ、彼ガ中国ノ皇帝タルコトヲ援助セシメタノデアル。

当初日本ハ、斯ル激烈ナ条約ノ提出ヲ逡巡シタ。当時ノ日本ノ外務大臣加藤高明男爵ハ、予メ先ズ仔細ニ袁氏ガ応諾スルヤ否ヤニ付イテ観察シ、彼ニ応諾ノ意思有ルコトヲ確メ得タ後、更ニ袁氏ニ絶対秘密ヲ守ルベキコトヲ要求シ、日本側ヨリ提出スル迄ハ、之ガ条約ノ内容ヲ漏洩スルコトヲ禁ジタノデアツタ。

然ルニ提出後、新聞紙ガ此事ヲ世ニ漏スヤ、中国及外国ノ各方面ニ於テ、紛々タル反対ガ起ルニ至リ、袁氏ノ部下迄モ反対ヲ唱フルニ至ツタ。茲ニ於テ袁氏ハ日本政府ニ、終始其ノ主張ヲ堅持シ、必要ガアレバ出兵シテ武力ヲ示スベキヲ要求シタ。

ソコデ日本ハ袁ノ画策ニ従ツテ中国ニ派兵シタノデアル。当時日本人モ、皆日本政府ノ斯ノ如キ無暴ナ挙ヲ攻撃シタガ、日本ノ首相ハ、満鮮駐屯軍ノ満期ニ当ル為、派兵交代セシムルモノナル旨ヲ声明シタ。然シ之レハ完全ナ飾詞デ、派兵シタノハ満期ノ二ヶ月前ノコトデアツタ。而モ日本ノ首相ハ遂ニ之ヲ以テ中国ノ反対ヲ圧ヘテシマツタノデアル。

他方中国ニ於テハ、袁世凱ハ日本ノ派兵ヲ直接威嚇行為ナリトシ、中国人ヲシテ彼ヲ信ゼシメントシタ。即チ二十一箇条条約ヲ承諾シナケレバ、日本ハ武力ヲ用フルデアラウ、トナシタノデアル。此ノ種ノ深イ密謀ハ、従来民衆ノ暁リ得ナカツタモノデアル。然ルニ此ノ種ノ事実ヲ知ルコトナシニ、中国問題ノ正当ナル解決方法ヲ求メヨウトスルコトハ、実ニ至難デアル。

当時ノ日本ノ世論ハ、之ヲ日本政府ノ外交上ノ大失態トナシ、其ノ結果加藤外務大臣ハ辞職ヲ迫ラルルニ至ツタ程デアツタ。

他面全体ノ中国人モ一致シテ此ノ事ニ反対シタガ、袁世凱ハ現北京総統タル、時ノ首相徐世昌及外交総長陸徴?ヲシテ、無理ニ中国ヲ圧迫スル此ノ協定ニ調印セシメタ。之レガ為ニ此ノ二十一箇条条約ハ既成ノ事実トナリ、日本人モ重ネテ其ノ政府ヲ責メナイ様ニナツタ。

二十一カ条の要求を巡るこのような内容の史料は「孫文全集」だけではない。これを裏付けるかのような資料も存在する。
【引用】
『暗黒大陸中国の真実 1933年』(ラルフ・タウンゼント)

二十一ヵ条要求の背景
世界中が戦争に巻き込まれていた1915年、日本はこれを好機と捉え失地回復を図った。二十一ヵ条からなる文書を認め、中国代表団に提示した。いわゆる「二十一ヵ条要求」である。

確かに「要求」といわれれば「要求」かもしれない。全容は明らかにされなかったが、日本が最も力を入れたのは、1923年に期限切れとなる鉄道の租借期限の延長であった。

これを知ったアメリカがまず日本非難に回り、列強も同調したので要求を幾分和らげることとなった。これは交渉に当たった日本の外交官からじかに聞いた話であるが、内容が公になるずっと前に、中国代表団は内容に満足し、調印に同意していたそうである。

ところが、中国側はこう持ち出してきた。「内容はこれで満足だが『要求』ということにしてくれまいか。そうした方が見栄えがする。やむなく調印したのだという風にしたいのだが」と。

これを受けて日本側は「その方が良いならそういたしましょう」と言って、高圧的な態度に出るふりをした。それで中国人は不承不承、署名をするという風にしたのである。
裏でかなりの金が動いたであろう。中国との交渉事は金次第とみてきたからである。

ところが今回は計算違いだった。「日本に脅迫されやむなく調印した」という体裁にしたのは、中国の国内の中国人に納得してもらうためであった。ところがアメリカがこれに噛み付いた。「哀れな中国に、過酷な要求を突きつけるとは許せん」とばかり、同情が湧き上った。 (P256~258)

【引用】
『シナ大陸の真相 1938年』(K・カール・カワカミ)

中央であると地方であるとを問わず中国当局が余りにも妨害政策を推進したために、日本は1915年に中国に対して「21ヶ条要求」を提出しなければならなくなった。

この要求に関しては中国の宣伝によって余りにも大きな騒ぎが生じたためにその本質がかすんでしまうほどであった。

この21ヶ条要求(本質的な狙いは満州の日本利権の保護)は、中国に侵害されかけているこの地域での日本の足場を確り固めようと言う意図の下に考えられた警告手段以上の何ものでもなかった、というのが真相である。 (中略) 21ヶ条要求が出されたとき日本側の責任者であった外務大臣の加藤伯爵の伝記の中に、1915年の交渉のときに日本政府が最後通告を出すことを中国側代表が非公式に求めてきた、と記されている。その理由は、そうすることによって袁世凱大統領が条約により調印しやすくなり、彼の政敵に対するもっともらしい言い訳を与えてくれるからだ、というのだ。