【よくある指摘】 朝鮮は自力で独立できた
【反論】 自力での独立は不可能だった
併合前の李氏朝鮮は、予算編成も無く、賄賂が横行し、租税の90%を役人が横領していた。両班が常民以下を虐待し、国民は餓死して人口が減少するほどだった。無法地帯で国家の体を成していなかったのが実情である。
しかも、近代化を志す思想家や志士達は親類縁者を含めて処断された。日本が朝鮮独自の近代化を求めて援助しても、一向に近代化へ向かう様子はなかった。
経済の面でも、鉄道を例に挙げれば、京仁・京釜線鉄道の建設費は、3500万円であり、日本人の血税で賄われた。
それに対し、同年の大韓帝国の収入額(税・印紙税総額)は、784万円であり、自力での鉄道敷設は夢でしかなかった。
(参考文献:『日韓併合 韓民族を救った「日帝36年」の真実』崔基鎬)
予想される指摘(別ページ):鉄道敷設などの近代化政策は戦争のためだ
【反論】 朝鮮は清の属国だった
「三跪九叩頭の礼(さんききゅうこうとうのれい)」は、清の皇帝に対する臣下の礼であり、三跪九叩頭を行って皇帝に拝謁することは、その臣下を意味しており、国としては属国的な扱いとなる。
第二次日韓協約後の閣議にて(李完用)
わが国の外交は変幻きわまりなく、その結果日本は
(日本が日清戦争と日露戦争によって血を流し、 ようやく韓国は領土を保全できたのに、これ以上、自分達の外交で東洋の平和を乱すのは耐えられない)
【反論】 そもそも独立という概念がない
李氏朝鮮は、李成桂が明との戦いで高麗王を裏切り、裏では明と通じて政権を奪い取って成立したものであるから、成り立ちからして独立国ではない。
1875年の江華島事件のきっかけは、朝鮮の開国を求める日本が「朝鮮は清の属国であるからできない」と断られたのを、軍事力を背景に強引に迫ったもの。
『日韓併合 韓民族を救った「日帝36年」の真実』(崔基鎬)
そもそも李氏朝鮮は建国以来、独立国であったことはなかった。であるから、日本の統治を受けたからといって、突然「独立」を言いだすのもおかしな話である。 李氏朝鮮は、「明」の属国に成り下がり、重要な国事は全て「明」の決裁を仰ぐ隷属国にすぎなかった。
『中央日報 2002年3月7日』(姜偉錫)
民族と親日
日帝が朝鮮を併合した際、朝鮮にはこの併合を恥じる主体の民族意識がなかった。民族は民族意識と同じだ。したがって朝鮮には「民族」がなかった。
【よくある反応】 三一独立運動以降は独立の気概があった
【反論】 独立することに関心が無かった
1936年に朝鮮人に実施したアンケートによると、
1936年に憲兵が朝鮮半島で実施した世論調査
"常に独立を夢想する":8%、"チャンスがあれば独立したい":10%、"独立しない方が良い":32%、"無関心":50%。
【よくある指摘】 朝鮮は海外からの技術が入り始めていたから韓国併合は余計なお世話
【反論】 韓国併合がなければ朝鮮はロシアに支配されていた
当時のロシアは不凍港を求め、南下政策を取っていた。その勢力は朝鮮半島に及んでおり、日露戦争のきっかけにもなっている。
ロシアの南下政策は日本も例外ではなく、1861年にロシア軍艦による対馬占領事件も起きている。
対馬の島民に対するロシア軍の扱いは、暴力的でとても近代化どころではなく、朝鮮半島をロシア軍に明け渡しても、同様の扱いを受けたであろう。
『韓日合邦を要求する声明書』(一進会※) ※朝鮮人の会員は100万人(諸説あり)を有する
日本は日清戦争を通じて韓国を独立させ、日露戦争でロシアに食われかけていた韓国を救ってくれた。 それでも韓国はこれをありがたく思うどころか、あの国にくっつき、この国にくっつきし、結局は外交権を奪われることになったが、これは我々が自ら招いたことである。
『アジア歴史資料センター』
ロシアの姿勢はその後も変わらず、フランス、ドイツの支持を受けて、満州の兵力をさらに増強し、その勢力は朝鮮にも及びます。明治36年(1903年)、ロシアが韓国北部に軍事基地を造り始めたと報じられると、日本の国内には開戦論が強まります。
ロシア軍艦対馬占領事件
ロシア艦隊の中国海域艦隊司令官であったイワン・リハチョーフ大佐は、不凍港を確保するため対馬海峡に根拠地を築くことを提案した(中略)リハチョーフ司令官の命令によりポサドニック号が派遣されたのであった。
(中略)優勢な武力をもって日本側を脅かしたり、住民を懐柔したりし、木材・牛馬・食糧・薪炭を強奪または買収して滞留の準備を整えた。またロシア水兵は短艇を操って沿岸を測量し、山野を歩き回って野獣を捕獲したり、中には婦女を追跡して脅かす水兵もいたため、住民は激昂し、しばしば紛争が起こった。(Wikipediaより)
【よくある反応】 圧政のため仕方なく日本に従っていた
【反論】 積極的に日本に傾倒していた
朝鮮人は日の丸を掲げて積極的に日本のアジア進出に傾倒していた。
当時、
1943年の朝鮮志願兵応募状況によると、応募者303,294人、採用数5,300人、競争率は57倍である。
尚、韓国大統領となった朴正煕も日本軍に志願し、血書を提出している(満洲新聞 1939年3月31日)
朴春琴代議士は、朝鮮人志願兵の実現を熱望しており、朝鮮人2,300万人の悲願であるとし、制度の実現に感謝の意を述べている。
(朴春琴は一代議士に過ぎず、親日派の売国奴に過ぎないと反論するのは簡単であるが、各種統計や戦前を知る韓国人の話も鑑みると辻褄が合うのである)
戦前においても、1931年7月2日、長春近郊に入植した朝鮮人と中国人との用水路をめぐるトラブルから武力衝突が発生し、
中国人100人以上が朝鮮人たちに虐殺されたが、彼らは意気揚々と日の丸を掲げている(万宝山事件)。