日中戦争(支那事変)

【よくある指摘】 日中戦争(支那事変)が泥沼化したのは日本のせい

【反論】 日中戦争(支那事変)の泥沼化は双方に責任がある

まず、日中戦争(支那事変)勃発前の中国の実情を大雑把に述べると、蔣介石率いる国民党と、毛沢東の共産党が中国の実権を巡って争っていた。

結論から述べると、コミンテルンの影響を受けた共産主義者たちが、中国共産党を勝たせるために、 中国(国民党)と日本(日本政府)を操って日中戦争(支那事変)を泥沼化させたというのが実体である。

日中戦争(支那事変)のきっかけである盧溝橋事件の背景はこちらを参照されたい。

参考:盧溝橋事件の背景

盧溝橋事件の背景を見れば分かるが、共産党は漁夫の利を得るべく、日中戦争(支那事変)で国民党と日本軍との戦闘を泥沼化させ、両者を疲弊させることを目論んでいた。

日中戦争(支那事変)勃発後も、日本と国民党は何度も停戦協定を結んだが、中国側はことごとく破ってしまった。

経緯は以下の通り。
年月日 出来事
1937年7月8日盧溝橋事件に対応して、日本軍が反撃。
1937年7月11日停戦協定が成立。(日本側の戦死者11人、負傷者36人、中国側(推定)戦死者30人、負傷約100人)
1937年7月11日中国の何応欽部長が、7月末までに全兵力動員の「戦争計画」を指示。日本側も閣議で5個師団の「北支派兵」が決定。
1937年7月13日中国兵が日本軍のトラック2台に手榴弾を投げ込み全員を殺害。
1937年7月14日中国兵が日本の騎馬兵を殺害。
1937年7月16日7/13,7/14の事件を収集させようとする宋哲元に対し、蒋介石は「日本の策謀に乗じるな、戦備を整えよ」と打電。
1937年7月17日 蒋介石が『生死関頭』演説を行い日中戦争(支那事変)の決意を表明。
1937年7月25日 郎坊事件(日本軍が中国軍の攻撃を受ける)。
1937年7月26日 広安門事件(日本軍が中国軍の攻撃を受ける)。
1937年7月28日 日本軍が華北への攻撃を開始。
1937年7月29日 通州事件(日本人居留民約260名が虐殺される)。
1937年8月9日 和平会談の予定だったが、海軍陸戦隊の大山中尉が殺害されて失敗する。
1937年11月2日 広田外相が正式にドイツ大使に仲介を依頼し、日本側の和平条件を提示。
1937年11月6日 駐支ドイツ大使が日本の和平案を伝えるが、蒋介石はこれを拒否。
1937年12月2日 国民党内で日本の和平案を検討、華北の全行政権は南京政府に委ねるといった譲歩した内容であり、賛成意見が多かったが、 蒋介石は交渉は受け入れる方針をトラウトマンに伝えるも返答は保留。
1937年12月21日 日本では南京陥落を受けて強硬論が出始め、北支・内蒙古に非武装地帯を設定し、賠償を求める等、厳しくした和平案を提示。
1938年1月2日 ドイツ大使トラウトマンが日本の和平案の返事を聞くために蒋介石を訪問しようとしたが、蒋介石は面会を拒否。
1938年1月15日 蒋介石から和平交渉の明確な回答が得られず、日本政府は交渉を打ち切る。

上記は一見すると、一方的に中国(国民党)が悪いように見えるが、日本側も停戦協定の後に軍備を増強して蒋介石の不信を買ったり、 まとまりかけていた和平案を、わざわざ条件を厳しくして蔣介石を怒らせ、日中戦争(支那事変)を泥沼化させたのも事実である。

また日中戦争(支那事変)を泥沼化せず、止めるチャンスは他にもあり、近衛文麿首相と蔣介石の会談という機会もあった。

しかし、この日中戦争(支那事変)収束の最大のチャンスを近衛文麿は体調不良を理由に中止させてしまった。

共産主義者たちは、とにかく日中戦争(支那事変)を止めたくなかった。そして、近衛文麿も蔣介石も、背後にいる共産主義者の影響で日中戦争(支那事変)を止めることはできず泥沼化させてしまった。

近衛文麿は共産主義者ではないが、国内の共産主義者たちに利用されており(詳しくは林千勝氏の『日米戦争を策謀したのは誰だ!』が詳しい)、日中ともに共産主義者たちによる 「日本軍と国民党を戦わせて中国共産党が漁夫の利を得る」作戦にはめられ、日中戦争(支那事変)を泥沼化させたのである。

平和主義者であるはずの近衛文麿が、なぜ日中戦争(支那事変)を泥沼化させるような声明(国民政府を相手とせず)を出したのか。

この不可解な行動について、右派たちの中には中国側のあまりの暴虐ぶりにやむを得なかったとする見解の者もいると思うが、 近衛文麿がコミンテルンの工作を受けていたとする説が正しいとすると辻褄が合う。

石原莞爾は、日中戦争(支那事変)を終結させるため、トラウトマンを仲介した和平を進めていたが、これを妨害したのが風見章と近衛文麿である。

風見章と近衛文麿は石原莞爾を徹底的に誹謗中傷し、昭和天皇にまで悪印象を与えることで左遷させた。

日中戦争(支那事変)は日本が悪い、中国が悪いといった善悪以上に認識すべきは「共産主義者の恐ろしさ」である。
【引用】
『日米戦争を策謀したのは誰だ!』(林千勝)

石原莞爾少将は北支事変が始まるや、和平に向けて近衛首相に蒋介石との直接会談を提言します。これに対して風見(風見章※)は、屁理屈をつけて石原を非難し 階段の実現を妨害、事態を悪化させるよう謀ったのです。近衛も七月十二日から十九日までの大切な時期、例の如く、病臥して引き籠りました。

【補足】
※風見章(かざみあきら)について
1946年、GHQによって公職追放の処分を受ける。1951年の追放解除後、翌1952年の第25回衆議院議員総選挙に無所属で当選(以後5回連続当選)し政界復帰する。1954年1月には憲法擁護国民連合の代表委員となり、翌1955年1月に左派社会党に入党、10月の左右社会党統一時に党顧問となった。日ソ協会副会長、日中国交回復国民会議理事長。
1937年6月4日に第一次近衛内閣が成立すると、首相となった近衛文麿は当時全く面識の無かった風見を内閣書記官長に抜擢。(Wikipediaより)

【引用】
『日米戦争を策謀したのは誰だ!』(林千勝)

声明文(近衛文麿の「国民政府を相手とせず」のこと)は、風見(風見章)のところに陸軍・海軍・外務の三省の主務者が集まって起草したものです。(中略)多田参謀次長は「風見の馬鹿が あんなことをやってしまった、我々はびっくりしたのだ、陸軍ではないのだよ。あの声明(国民政府を相手とせず)の夜、蒋介石からトラウトマン交渉の中の二、三箇条について訊ねて来たのだ。 脈はあったのです。

【引用】
周恩来(中華人民共和国 首相 1949年10月1日)

あの時(廬溝橋事件の際)、我々の軍隊が、日本軍・国民党軍双方に、発砲し、日中両軍の相互不信を煽って停戦協定を妨害し、共産党に今日の栄光をもたらしたのだ。

【引用】
『日中戦争のおかげで全滅を免れた中国共産党-鄧小平語録』(伴正一※)

あの戦争が始まる前、われわれは井崗山(せいこうざん)から、長征の途についた。延安にたどりついたときは気息奄々、靴もちびはて、人数も2万人に減って、全滅寸前でした。ところが日中戦争が始まり、われわれを包囲していた蒋介石軍は日本軍によって次第に南部に押されていく。袋のネズミだったわれわれはそれで息を付くことになり、日本軍の後ろに回って、着々と工作をしていった。そして戦争終結時には数百万の正規軍を擁する軍事勢力にのし上がった

※伴正一氏は元外務省官僚であり、1972年から青年海外協力隊事務局長、1977年から1981年まで北京の日本大使館で公使などを歴任している。