韓国併合時代の教育/識字率

【よくある指摘】 併合前から朝鮮人は識字率が高く、寺子屋で学んでいたので学校など不要であった

【反論】 識字率は低く、学校は必要だった

1910年の朝鮮の識字率は6%(『韓国併合への道』呉善花)であり。学校が必要であったことは明らかである。

【よくある反応】 1930年の国勢調査によると男性70代以上の識字率でも35%程度ある

【反論】 女性の識字率は4%程度だった

1930年の国勢調査では、70代以上の男性のハングル識字率は35%程度あるが、女性の識字率は4%程度である。

これは、(35+4)/2≒識字率20%(よって、韓国併合末期の識字率22%と大差ない)という訳にはいかない。 総数で言えば1930年の時点で70代以上の識字率は16~17%であり、これはハングルの新聞やラジオが普及するにつれて読み書きできる人が増え、識字率が向上したと推測できる。

そもそも、併合前の朝鮮において、学校へ通うような人々は両班のような特権階級であり、彼らの主流は漢文である。ハングルは「子供文字」と軽蔑しており、学校では教えていなかったため、「日本が併合する前にハングルは教育によって普及していた」かのような言説は誤りとなる。

よって、韓国併合時点での識字率は多くの研究者が主張する5~10%程度が妥当と思われる。

【引用】
『反日韓国人撃退マニュアル』(桜井誠)

併合前は学校と呼べるようなモノは郷校、書院、書堂などといった特権階級が通うモノしかなかった。しかし実態は政争に敗れたリャンバンが集う犯罪者の巣窟となっていたそうで、1871年に大院君は「書院閉鎖令」を出して順次閉鎖していったそうです。ハングルはリャンバンに蔑まれていたそうなので、当時少なかった学校ですらハングルは教えられていなかったのです。

【よくある反応】 学校に通えなかったから併合末期でも識字率は22%しかない

【反論】 朝鮮人が就学を拒否したから

普通学校は義務教育ではなかったため、募集をかけることになるが、就学を拒否していたため生徒がなかなか集まらなかった。
併合時代の朝鮮の就学率は以下の通り(『植民地朝鮮における初等教育』古川宣子)

西暦 就学率
1910年1%
1920年4%
1930年16%
1940年39%

背景には、日本人が教育することにより民族意識が剥奪されるのではという警戒感もあったが、伝統的な漢文教育が少ないことへの不満、すなわち保護者たちの近代教育への理解不足も挙げられる。(『朝鮮における普通学校の定着過程』古川宣子)

尚、公立の普通学校では授業料も教材費も無料であり、食費を支給する学校もあった。(『朝鮮における普通学校の定着過程』古川宣子)
【引用】
『新任の日本人教監への訓示 1908年5月』(俵孫一 学部次官)
諸君の最も困難を感ずるものは学徒の募集なり

『日本人教監の報告』
自ら進んで入学し来る者は甚だ少なし従って募集上困難せり

【よくある反応】 私学校を含めると学校の総数は減っている

【反論】 近代教育のために公立を増やしたのだから当然のこと

私立の学校が近代教育のカリキュラムを採用しないのであれば、公立学校へ転用されるのは当然である。

1908年8月 統監府は勅令第62号において、私立学校令を公布し、私立学校を認可制とした。

これを「民族教育の弾圧」とする言説も存在するが、基礎科目を怠り、宗教や民族意識の向上にのみ取り組むような学校を認可できないのは当然である。

【よくある反応】 日本語教育が嫌で公立学校へ行かなかった

【反論】 むしろ朝鮮語を捨てようとした

日本統治下の朝鮮において、朝鮮語は必須科目だった(後に、必須科目からは除外されたが、積極的に朝鮮語教育を止めたのは、主に朝鮮人の校長だった)。 また、京城帝国大学に、朝鮮語学部や、朝鮮文学部が存在した。

朝鮮総督府の機関紙『毎日申報』は、漢字ハングル混じりで終戦まで発行されていたし、ラジオの第二放送は朝鮮語が用いられていた。

朝鮮総督府が編纂した朝鮮語辞典も存在し、在朝鮮日本人に対する朝鮮語奨励政策まで実施されていた。

【よくある反応】 日本語を推奨した人物は売国奴に過ぎない

【反論】 朝鮮語廃止の流れは、一般的に受け入れられていた

「朝鮮人は、朝鮮語を忘れてしまわなければならない。朝鮮人が日本語でものを考えたときこそ、朝鮮人が最も幸福になった時である」と、主張する、 玄永燮の「朝鮮人の進むべき道」という本が、朝鮮人の間でベストセラーになっている。