【よくある指摘】 ジョン・ラーベの日記が南京虐殺(ぎゃくさつ)の証明である
【反論】 ジョン・ラーベの南京虐殺(ぎゃくさつ)の証言や日記には信憑性が無い
ジョン・ラーべの日記や手紙の中ではラーべ本人が殺人現場を見た記述は一つもない。
そもそもジョン・ラーベは1937年12月17日に、日本大使館に『第6号文書』で日本軍による破壊や犯罪が極めて少数で秩序が回復したと報告している。
しかし、ドイツ上海総領事宛のジョン・ラーベの手紙には、「約2万の婦女子を犯し、数千の無辜の市民を殺害」と記載していた。
また、『ヒトラーへの上申書』には、「中国側の申し立てによりますと、10万の民間人が殺されたとのことですが、これはいくらか多すぎるのではないでしょうか。我々外国人はおよそ5万から6万と見ています」と報告している。
ジョン・ラーベの報告内容は、日本向けと本国向けで異なるばかりか、犠牲者数が数千から5~6万と一貫性がない。
また、このような大殺戮が起こっているにも関わらず、日本の憲兵に通報したり、日本大使館に抗議するのが安全区国際委員長の責務であるが、
それをせず、上海やドイツなどに向けてのみ、日本軍の犯罪を発信していた。
ところがジョン・ラーベは、国際委員会を代表して次のような書簡を日本軍に送っている(「法廷証」323号=検察番号1744号抜粋、極東国際軍事(東京)裁判速記録210号)。
「拝啓 私どもは貴下の砲兵隊が安全地区を攻撃されなかったという美挙に対して、また同地区における中国民間人の援護に対する将来の計画につき、貴下と連絡をとり得るようになりましたことに対して感謝の意を表するものであります。」
ジョン・ラーベは、安全区の自宅に、現金を一杯に詰めたトランクを幾つも持っていた中国軍将校の龍大佐と周大佐を潜伏させていた。
このようにジョン・ラーベは中国軍を擁護するような活動をしているが、そもそも国際委員会は宣教師などによる非公式の団体であり、公的な機関ではない。
また、
ヒトラーは日本と手を組むため、中国への軍需品輸出を控えたが、同盟を阻止するために日本の非道を訴えたという指摘もある。
つまり、
ドイツ大使館のシャルフェンベルクは、この状況を見て1938年2月10日に、南京の実情を確かめた上でドイツ大使館に、
ジョン・ラーベが語る日本軍の暴行事件についてジョン・ラーべに確認し「暴行事件は中国人から一方的に聞いているだけ」と報告している。
その後、ジョン・ラーベはドイツ本国へ戻されている。
ラーベ日記の虚妄『南京の真実』を駁す=虐殺5~6万人、強姦2万人の根拠は何か=(田中正明)
ラーベの16日の日記によると『今ここで味わっている恐怖に比べれば、今までの爆弾投下や大砲連射など、ものの数ではない。安全区外にある店で略奪を受けなかった店は一件もない。いまや略奪だけでなく、強姦、殺人、暴力がこの安全区内にも及んできている、外国の国旗があろうがなかろうが、空き家という空き家はことごとくこじ開けられ、荒らされた。』とその暴虐ぶりを述べている。
ラーベの日記には『局部に竹を突っ込まれた女の人の死体をそこら中で見かける。吐き気がして息苦しくなる。70を越えた人さえ何度も暴行されているのだ』とあるが、強姦のあと「局部に竹を突っ込む」などという風習は、支那にあっても、日本には絶対ない。
また、
改めて『ラーベの日記』を徹底検証する(亜細亜大学教授 東中野修道)
12日20時、唐生智逃亡の頃、龍大佐と周大佐がラーベを再訪する。そして「ここに避難させてもらえないか」と頼んだ。ラーベは良心の呵責(かしゃく)を覚えることなく、敵兵をかくまう。(中略)
昭和13年2月15日「昨晩、龍と周の二人が我が家を去った」とラーベは記す。(中略)彼らは上官の唐生智の指示により計画的に残されたのである。しかしそれならば、彼らは赤十字病院の置かれた外交部に直行すべきであった。
それが、
「南京の金陵女子大学に避難民救助委員会の外国人委員として残留しているアメリカ人教授たちは、(1)逃亡中の大佐1名とその部下の将校6名をかくまっていたことを発見し、心底から当惑した。実のところ教授たちはこの大佐をそのキャンプで2番目に権力ある地位につけていたのである。
この将校たちは支那軍が南京から退却する際に(2)軍服を脱ぎ捨て、それから女子大の建物に住んでいて発見された。彼らは大学の建物の中に(3)ライフル6丁と、ピストル5丁、砲台からはずした機関銃1丁に、弾薬をも隠していたが、それを日本軍の捜索隊に発見されて、自分たちのものであると自白した。
この将校たちは(4)南京で略奪したことと、ある晩などは避難民キャンプから少女たちを暗闇に引きずり込んで、その翌日には日本兵が襲った風にしたことを、アメリカ人たちや他の外国人たちのいる前で自白した。
【よくある反応】 日本の同盟国であるドイツのジョン・ラーベの証言だからこそ信憑性がある
【反論】 日本とドイツが同盟関係になるのは南京事件の後である
ドイツが日独同盟で親日政策を執るようになったのは、1938年2月リッペントロップが外相に就任して以降のことであるが、 南京事件があったとされる期間は、1937年12月から1938年1月である。