南京虐殺(ぎゃくさつ)

南京の人口推移は以下の通り。


【よくある指摘】 南京の人口20万人は南京城区の人口であって郷区を含んでいない

【反論】 郷区を含んでいる

1937年前半の郷区を含む南京の人口は100万人のため、郷区を含んでいない(南京虐殺は城区外で行われた)とする指摘は誤りである。

【引用】
『スマイス調査 1.市部調査 Ⅰ.人口』

南京市の戦前の人口はちょうど100万であったが、爆撃が繰り返され、後には 南京攻撃が近づいて中国政府機関が全部疎開したためにかなり減少した。 市の陥落当時(1937年12月12日~13日)の人口は20万から25万であった。

【引用】
『南京アメリカ大使館 エスピー報告 12月10日後の主な報告』

南京の陥落を前にして、中国軍と市民の脱出は引きも切らなかった。人口のおよそ5分の4が市を脱出し、主要な部隊は武器・装備もろとも撤退していった。南京市の防衛は、わずかに5万人の兵士に任されていた。

住民の5分の4は逃げ去っていたが、残留した者の大部分は、南京安全区国際委員会が設定しようとした、いわゆる「安全区」に避難していた。

南京の政治およぴ経済状況
市の人口およそ100万人のうち、現在20万~25万人が残留し、そのほとんどが貧民階級の人たちである。
大多数が「安全区」内の建物や臨時に設けた野営地にすし詰めとなっている。

【よくある反応】 11月23日の時点で城区に50万人おり、80万人もの市民が1ヶ月で南京を脱出できる訳がない

【反論】 4日で少なくとも10万人が南京を脱出している

よくある指摘として、以下を根拠に「城区だけで人口50万人もいたのだから、南京の人口が郷区を含めて20万~25万人はあり得ない」というものがある。

まず「1ヶ月で80万人が南京を脱出した」という点が誤りがある。

南京からの避難が始まったのは日本軍による爆撃が始まった1937年8月からである。 1937年3月末では郷区の人口は約15万人(首都警察庁調べ、笠原十九司『南京事件』より)である。

11月23日の時点で郷区の人間が誰も避難していないと仮定しても、南京の総人口は65万人になり、少なく見積もっても35万人は既に南京を脱出したことになる。

【引用】
『南京市政府書簡 1937年11月23日』

調査によれば本市(南京城区)の現在の人口は約50余万である。
将来は、およそ20万と予想される難民のための食料送付が必要である。

ところが、その4日後の11月27日に米大使館が以下のような報告をしている。

【引用】
『米大使館報告 アチソン書記官 1937年11月27日』

在留外国人に対して「避難勧告」が出された。
市民の脱出は続いているが、市長の話では30万から40万の市民がまだ南京に残っているとのこと。

僅か4日の間に少なくとも10万人が南京を脱出しており、また、脱出できた者は、比較的裕福な人々である。8月から南京虐殺があったとされる12月13日までに80万人が南京を脱出していても不思議ではない。

【引用】
『ジョン・ラーベの日記 1937年12月6日』

ここに残った人は、家族を連れて逃げたくても金がなかったのだ。おまえら軍人が犯した過ちを、こういう一番気の毒な人民の命で償わせようと言うのか!なぜ、金持ちを、約八十万人という恵まれた市民を逃がしたんだ?

【よくある反応】 南京を脱出した者は、南京の城区から郷区へ逃げただけであり、南京市内に残っていた

【反論】 南京の郷区に大勢の人が避難することは不可能である

南京市政府書簡によると、1937年11月23日時点で30万人が南京を脱出する前提になっている。

その約1週間後の1937年12月1日に南京市長が全市民に安全地区に移るように命令しているため、『南京を脱出することは不可能だから、避難民は郷区から出られない』とする言説は誤りである。

【引用】
『南京市政府書簡 1937年11月23日』

調査によれば本市(南京城区)の現在の人口は約50余万である。将来は、およそ20万と予想される難民のための食料送付が必要である

また、以下のような状況を鑑みると、大勢の人間が郷区に残ることは不可能である。

【引用】
『金陵女子大 ミニー・ヴォートリン 12月6日』

UP(AP)特派員のマクダニエルが今日話してくれたところでは、きのう句容に行ってみたが、人が住んでいる村はただの一つもなかったそうだ。中国軍は村びとを一人残らず連れ出し、そのあと村を焼き払っているのだ。まったくの焦土作戦だ。農民たちは城内に連れてこられるか、そうでなければ浦口経由で北方に追いやられている。

【引用】
『南京事件の日々 12月7日』

何千という人々が南門から安全区に入ってきた。彼らの話によれば、5時までに立ち退くよう警察から命令されており、それに従わなければ家は焼き払われ、スパイとみなされる、というのだ。

【引用】
『ジョン・ラーベの日記 12月8日』

城壁の外はぐるりと焼き払われ、焼け出された人達がつぎつぎと送られてくる。

【引用】
『南京事件の日々 12月9日』

今夜は南京市の南西隅の空全体を火炎が照らしている。(略)AP特派員のマクダニエルは、中国兵が灯油をかけて家に火をつけているところを目撃したと言っている。

【引用】
『歩兵19連隊第四中隊長 土屋正治 光華門より入城』

市街に深く進入すればするほど、まさに『死の街』という感じを深くした。敵弾の飛来はもちろん、人影一つ見えず、粛然とした軒並のみが果てしなく続いていた。

尚、南京を脱出した人々は主に漢口、上海、香港に避難していた。

【引用】
『文藝春秋 第十六巻 第十九號 昭和十三年十一月特別號 (1938年)従軍通信/上海より廬州まで/瀧井孝作』

九月二十三日。晴。南京にて。 人口は戦前は百萬そのうち二十五萬漢口に行き、二十五萬は上海に在り、 五萬は香港に行き、現在は四五十萬どまりなり。