韓国併合時代の創氏改名

【補足】
・韓国の名前の仕組み(概要)

まず、便宜上、当時の名前の仕組みを、「本貫・姓」、「氏」、「名」に分類して説明する。
「本貫・姓」・・・先祖の出身地と代々続く男系の苗字
  <特徴>結婚しても男女とも変わらない、地名が付く:甲斐武田、尾張織田など
「氏」・・・家族制度上の苗字(創氏改名で初めて導入)
  <特徴>結婚したら女性は夫の氏になる、例:武田、織田など
「名」・・・名前のこと(信玄、信長など)
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・「創氏」と「改名」の違い

「創氏」・・・すべての朝鮮人に新たに氏(家の名)を創設させ、血統を基礎とする朝鮮の儒教的家族制度のあり方を、家族を基礎とする日本内地の家制度に近いものに変更しようとしたもの(日本風の氏に変えることも可能)
 <例1>
  「本貫・姓」:慶州・金
  「氏」:(なし)
  「名」:武鉉
    ↓
  「本貫・姓」:慶州・金
  「氏」:金
  「名」:武鉉

 <例2>
  「本貫・姓」:慶州・金
  「氏」:(なし)
  「名」:武鉉
    ↓
  「本貫・姓」:慶州・金
  「氏」:山本
  「名」:武鉉

さらに創氏には設定創氏と法定創氏がある。

 <設定創氏>1940年2月より8月の設定期間中に、窓口の自治体役場に届出された氏である。(伊藤や井上など)日本風の氏を新設して届け出る者が大半だった(届け出は任意)。

 <法定創氏>上記期間内に自発的に届出をしなかった残余の者につき、従来の姓をそのまま氏としたもの(強制的に適用)。

「改名」・・・氏名の変更には裁判所の許可が必要であったが、これを届出のみで変更できるよう、法制化されたもの。(設定創氏の届け出期間を過ぎても、氏名を改名することができた)
 <例>
  「本貫・姓」:慶州・金
  「氏」:金
  「名」:武鉉
    ↓
  「本貫・姓」:慶州・金
  「氏」:山本
  「名」:太郎
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男系の姓(本貫・姓)と引き継ぐことは儒教の文化であり、韓国の場合は一族の繁栄のため同じ姓同士は結婚せず、異なる姓をもつ養子は取らないことが原則であった。

そして、日韓併合後、日本名を名乗りたいという請願や、「結婚して同じ姓を名乗りたい」といった声、逆に「先祖代々受け継いできた姓名を変えたくない」といった声もあり、 韓国の伝統である姓(本貫・姓)の仕組みを残し、新たに氏を設けることで 近代化と伝統維持の折衷案が創氏改名である(日中戦争中でもあったことから、日本と朝鮮を一体化し、国力を高めようする意図もあることにも留意する必要がある)。

【よくある指摘】 創氏改名により名前を奪った

【反論】 創氏改名で自分達から日本名を名乗った

『朝鮮人ノ姓名改称ニ関スル件 布令)1911年11月1日総督府令第124号』 で「内地人ニ紛ハシキ姓名を禁止」としている。

総督府は、朝鮮人と日本人を区別する為、"日本風の名前を名乗る改名の禁止"の法令を出している。

ところが1939年、朝鮮人側からの要望により「創氏改名」が発令(1940年に施行)され、322万戸(人口の80%)の朝鮮人たちが、日本風の氏を名乗ることとなった。

要するに、総督府は日本名を名乗ることを禁止していたが、朝鮮人から「日本名を名乗らせて欲しい」と請願したのが実態である。

また、創氏改名は強制ではなく、任意であった。 南次郎 朝鮮総督は申請受付開始の翌月、3月5日の定例局長会議でも強制してはならないと訓示しており、ハングルの新聞でも報道されていた。

【引用】
東亜日報 夕刊(1940年3月6日)

創氏改名の機会を与えるだけで強制実施してはならない
一般の誤解を一掃して趣旨を徹底するように
南総督、定例局長会議で強調

【よくある反応】 改名は任意だが、創氏は強制だった

【反論】 氏の創設は強制だが、伝統的な姓(本貫・姓)は残した

「日本名を名乗りたい」とする声や、「結婚して同じ姓を名乗りたい」といった声、逆に「先祖代々受け継いできた姓名を変えたくない」といった声もあり、 韓国の伝統である姓(本貫・姓)の仕組みを残し、新たに氏を設けることによる「近代化と伝統維持の折衷案」が創氏改名である。

【よくある反応】 日本名にしないと、社会的に不利だった

【反論】 不利ではなかった

洪思翊は、朝鮮名のまま、中将まで出世した。朴春琴は、朝鮮名のまま、衆議院議員に当選した。

朴春琴は親日派であったが、洪思翊は1919年に大韓民国臨時政府にも参加した朝鮮独立派であり、現在の価値観においても、決して売国奴と呼べる人物ではない。