南京虐殺(ぎゃくさつ)

【よくある指摘】 スマイスが書籍で南京虐殺(ぎゃくさつ)を証明している

【反論】 スマイスらの南京虐殺(ぎゃくさつ)に関する書籍は、国民党の宣伝本である

スマイスの『南京地区における戦争被害』は国民党の宣伝本である。

スマイスの戦争被害調査の都市部集計において使用された調査票には、死亡状況の原因が、『事故』と、『冲突』の二種類になっている。
『事故』とは砲撃、爆撃、戦場における銃撃による戦死である。
『冲突』とは砲撃や爆撃などの軍事行動以外の戦死(病死や事故死)であり、民間人を暴行、殺害したものではない。 スマイスの書籍は、これらの調査結果を日本兵による蛮行の記録としていると思われる。

【引用】
『曾虚白の自伝』(国民党国際宣伝処の処長)

ティンパレー(ティンパーリ)は都合のよいことに、我々が上海で抗日国際宣伝を展開していた時に上海の『抗戦委員会』に参加していた3人の重要人物のうちの1人であった・・・(中略) かくして我々は手始めに、金を使ってティンパレー(ティンパーリ)本人とティンパレー(ティンパーリ)経由でスマイスに依頼して、日本軍の大虐殺の目撃記録として2冊の本を書いてもらい、発行することを決定した

【よくある指摘】 ベイツが南京虐殺(ぎゃくさつ)を証言している

【反論】 ベイツの南京虐殺(ぎゃくさつ)の証言には信憑性が無い

ベイツ氏は「中国兵が去って日本軍が来るというので、市民の間には安堵の気持ちが広がった」と述べており(歴史学者 藤岡信勝談)、1937年12月15日にジャーナリストの若宮氏、村上氏の前で「整然とした日本軍が南京に入り、南京は平和になった」と語っている。 このことは『東京日日新聞 昭和12年12月16日号』にも報道されている。

しかし、同日、日本兵による虐殺、強姦、略奪について書かれたメールを対外的に発信している。東京判決では「南京で1万2千人の虐殺犠牲者を見た」と南京虐殺を証言している。

12月15日に南京を去るダーディンやスティールにも同様に民間人殺害や強姦について書いたメモ(レポート)を渡し、それが記事になっている。

また、安全区国際委員会が記録した「被害届」に記された強姦事件は、未遂を含めても361件で、記録者名のある事例は61件、日本軍に通報された事例は7件のみであったが、東京裁判では強姦件数を8千件と報告している。

また、アメリカ大使館のアリソン宛の手紙にも、自ら少女誘拐を目撃した訳でもなく「目撃者は怯えていて詳細が分からない」としながら「中国人の布靴を履き、中国服を着ていた日本人憲兵」と犯人を断定するような一貫性の無いことを主張している。

尚、ベイツ氏は1938年に国民政府から勲章を受けて、その後国民党の顧問に就任している。

【引用】
『東京裁判速記録第三六号』

それより少し前私はずっと内輪に見積もりまして、又安全地帯の委員会の報告のみによりまして、強姦事件は八千と見積もったのであります。

A little earlier I estimated, very much more cautiously and on the basis of thesafety zone reports alone, some eight thousand cases. 「The Tokyo War Crimes Trial, 」pp.2633-2634

【引用】
『南京事件調査研究会編訳 南京事件資料集 第1巻』

ダーディンたちは12月15日まで南京に居たが、戦闘の様子や便衣兵の処刑しか目撃していない。 5人の日本兵がアメリカ大使の私邸から懐中電灯1本を略奪したとか、大学病院で金品が盗まれたことなどは取材で知ったようだ。 しかし、日本軍による民間人殺害とか強姦の記事はベイツのメモによるものだった

【引用】
『アメリカ大使館のアリソン宛の手紙 1938年1月14日付』

昨夜四人の日本人が金陵大学付属中学校の教室へ入ってきました。彼らの行動の詳細は十分には分かりません。というのはしかるべき目撃者が脅えきっているためです。とにかく彼らは一人の少女を連れ去りました。それらの日本人たちは憲兵で、少なくともその一部は、中学校の門に配備された衛兵たちでした。彼らは中国人の布靴を履き、一部に中国服を着ていました。

【よくある指摘】 A・T・スティールが南京虐殺(ぎゃくさつ)を報道している

【反論】 A・T・スティールの南京虐殺(ぎゃくさつ)の報道には信憑性が無い

上記のベイツから日本軍占領後の南京の状況に関するメモを受け取った一人がA・T・スティールであり、信憑性としてはベイツ氏と同等と考えてよい。

【引用】
『南京事件調査研究会編訳 南京事件資料集 第1巻 一〇五頁』

一九三八年一月五日、上海のアメリカ総領事ガウスからワシントンの国務長官宛の「祕密扱い」の報告書簡(出典:Record of US Embassy to Chinam Correspondence American Embassy Nanking)には次のように記されている。「南京大学のシール・ペイツ博士(社会学および歴史学の教授)が書いた日本軍占領後の南京の状況に関するメモを同封する。本メモの写しは、『シカゴ・デイリー・ニューズ』 のアーチボルト・スティール氏が当総領事館の館貞に手渡したものである」

【よくある指摘】 ティルマン・ダーティンが南京虐殺(ぎゃくさつ)を証言している

【反論】 ティルマン・ダーティンの南京虐殺(ぎゃくさつ)の証言には信憑性が無い

上記のベイツから日本軍占領後の南京の状況に関するメモを受け取ったのがティルマン・ダーティンであり、信憑性としてはベイツ氏と同等と考えてよい。

また、ティルマン・ダーティンは報道内容と、後の回顧録に矛盾が見られるため一貫性が無い。

ティルマン・ダーティンは1937年12月18日付ニューヨーク・タイムズで、「日本軍の下関門の占領は、防衛軍兵士の集団殺戮を伴った」としている。

しかし、1987年8月にティルマン・ダーティンは、自分が目撃した多くの死体は日本軍が南京に入城する前のものであると認めている。

また、1938年1月9日のニューヨーク・タイムズにおいて、『南京を掌握するにあたり、日本軍はこれまで続いた日中戦争の過程で犯されたいかなる虐殺より野蛮な虐殺、略奪、強姦に熱中した。』と述べていたが、1989年10月の文藝春秋では、日本軍が南京を占領するまでは虐殺に類することはなにも目撃しなかったし、聞いたこともないと述べている。

1930年代の報道から1980年代のインタビューまでかなりの年月が経っており、ご高齢でもあることから、年月日や名前などの誤りは生じることは考えられるが、自分が見た死体の殺害のタイミングに矛盾が生じるのは、単なる記憶違いとは考えにい。

何故なら、日本軍の南京入城前か後では、殺した主体すら日本軍から(恐らく)国民党軍へ変わってしまうからである。

恐らく、下関門の占領で自身が"どのような報道をしたのか"忘れていたのであろう。

また、「これまで清廉潔白だった日本軍が南京では野蛮な虐殺、略奪、強姦に熱中」などと正直に報道してしまうと読者が違和感を感じると思ったのであろう、「これまで続いた日中戦争の過程で犯されたいかなる虐殺~」と前置きを付けることで違和感のない文章に仕上げている。

ようするに、日本軍が南京へ入城する前は、住民すら歓迎ムードだった程評判の良かった日本軍が、何故か南京では虐殺などの蛮行に及んだと述べており、自身の報道に矛盾がないように辻褄の合うことを言っているように見受けられる。

無論、「日本軍入城前に下関で見た死体と、その後目撃したとされる集団殺戮による死体は別だ」と指摘することも、「南京占領部隊だけは狂っていたのだ」と指摘することも可能だが、少なくとも言動の一貫性という意味では疑問符がつく。

尚、ティルマン・ダーティンは中央宣伝部の董顕光副部長と旧友であったことを付け加えておく。

【引用】
『ニューヨーク・タイムス 1937年12月18日』

日本軍の下関門の占領は、防衛軍兵士の集団殺戮を伴った。彼らの死骸は砂嚢に混じって積み上げられ、高さ六フィートの小山を築いていた。水曜日(十五日)遅くなっても日本軍は死骸を片付けず、さらには、その後の二日間、軍の輸送車が、人間や犬や馬の死骸も踏み潰しながら、その上を頻繁に行き来した。

【引用】
『南京事件資料集 アメリカ関係資料編 1987年8月』

この下関地区では、それこそ大勢の兵隊が邑江門から脱出しようとして、お互いに衝突したり、踏みつけあったりしたのです。前にもお話したような気がしますが、私たちが南京を出るときに、この門を通りましたが、車は死体の山の上を走らねばなりませんでした。この門から脱出しようとした中国軍の死骸です。中国軍はあちこちで城壁に攀じ登り脱出を試みました、これらの死体の山は日本軍がここを占領する前にできたように思うのです。この地域で戦闘はありませんでした。

【引用】
『文藝春秋 1989年10月』

――上海から南京近郊に到達するまでの過程で日本軍が中国側の捕虜や民間人を多数殺したという話しは当時あったのですか?
「いや、それはありませんでした。中国軍は日本軍に正面から戦いを挑まず、撤退していたし、地元の住民もみな避難していたからでしょう。  私は当時、虐殺に類することはなにも目撃しなかったし、聞いたこともありません。虐殺は日本軍が南京を占領してからなのです」

【よくある指摘】 イェーツ・マクダニエルが南京虐殺(ぎゃくさつ)を証言している

【反論】 イェーツ・マクダニエルの南京虐殺(ぎゃくさつ)の証言には信憑性が無い

マクダニエルは「目撃したのは戦死者だけだった」と報告しており、民間人の虐殺は目撃してない。それどころか、1937年12月9日に中国兵による放火を目撃している。

【よくある指摘】 ロバート・O・ウイルソンが南京虐殺(ぎゃくさつ)を証言している

【反論】 ロバート・O・ウイルソンの南京虐殺(ぎゃくさつ)の証言には信憑性が無い

ウイルソンの南京虐殺に関する証言も、伝聞のみに基づいており、本人が日本兵による蛮行を目撃したわけではない。

また、ウイルソンは、東京裁判において、事件発生時の南京の人口を50万と説明しているが、 1937年12月には20万人と発表している。

記憶違いでなければ、数十万人規模の虐殺を証明するかのように意図的に数字を数字を操作しているとも取れる。

【補足】
ベイツ氏と関わる外国特派員たち

スティール、ダーディン、メンケン、マクダニエル、スミスという名前が出てきたら、信憑性はベイツ氏と同等であると考えてよい。

【引用】
『南京事件――国民党極秘文書から読み解く』(東中野修道)

そのベイツ教授が上海から「諸友宛て」に送ったという、1938年4月12日付の手紙が残っている。
「その本には、12月15日に南京を離れようとしていたさまざまな特派員に利用してもらおうと、私が同日準備した声明が掲載されています」
その特派員とは、スティール、ダーディン、メンケン、マクダニエル、スミスの諸氏である。ベイツ教授の言う「その本」とは、今日では中央宣伝部が製作した宣伝本であると判明したティンパーリ編『戦争とは何か』である。その本の第1章の前半はベイツ教授が匿名で執筆していた。それが、ベイツ教授の言う「声明」(レポート)であった。ベイツ教授はそれを新聞記者に「利用」してもらおうと、12月15日に南京を離れる新聞記者たちに渡したと言うのである。
(略)
ベイツ教授が特派員たちに渡した「レポート」は、『戦争とは何か』の第1章前半に匿名で収録され、今日に残っている。早速、それを見てみよう。

2日もすると、たび重なる殺人、大規模で半ば計画的な略奪、婦女暴行をも含む家庭生活の勝手きわまる妨害などによって、事態の見通しはすっかり暗くなってしまいました。市内を見まわった外国人は、このとき、通りには市民の死体が多数ころがっていたと報告しています。……死亡した市民の大部分は、十三日午後と夜、つまり日本軍が侵入してきたときに射殺されたり、銃剣で突き殺されたりしたものでした。……元中国兵として日本軍によって引き出された数組の男たちは、数珠つなぎにしばりあげられて射殺されました。これらの兵士たちは武器をすてており、軍服さえぬぎすてていたものもいました。……南京で示されているこの身の毛もよだつような状態は……。

ベイツ教授がこれを特派員に渡したのは12月15日であった。したがって、この「レポート」が問題にしているのは(すでに見たアメリカの新聞記事と同じく)12月13日の陥落から3日間の出来事である。そこに書かれていることを挙げてみると、殺人、略奪、婦女暴行、死体、さらに中国兵の摘発、連行、射殺である。南京在住の外国人の記録を比較検討した前項からも分かるように、これは陥落3日間の状況から大きくかけ離れていた。しかも、ベイツ教授は国際委員会の有力なメンバーであった。彼が東京裁判で証言したように、「みずから」南京の日本大使館に渡していたという「市民重大被害報告」のなかには、ベイツ教授が12月15日の「レポート」に記したような「陥落後2日もすると頻発する殺人」という非難は一つも書かれていなかった。

【よくある指摘】 ミニー・ヴォートリンが南京虐殺(ぎゃくさつ)を証言している

【反論】 ミニー・ヴォートリンの南京虐殺(ぎゃくさつ)の証言には信憑性が無い

金陵女子大学で教師・教務主任を務めたミニー・ヴォートリンであるが、NYタイムスから以下のような記事が出ており、その信憑性に疑問符がつく。

【引用】
『NYタイムス 1938年1月4日』
元支那軍将校が避難民の中に 大佐一味が白状、南京の犯罪を日本軍のせいに

南京の金陵女子大学に、避難民救助委員会の外国人委員として残留しているアメリカ人教授たちは、逃亡中の大佐一味とその部下の将校を匿っていたことを発見し、心底から当惑した。

実のところ教授たちは、この大佐を避難民キャンプで2番目に権力ある地位につけていたのである。

この将校たちは、支那軍が南京から退却する際に軍服を脱ぎ捨て、それから女子大の建物に住んでいて発見された。彼らは大学の建物の中に、ライフル6丁とピストル5丁、砲台からはずした機関銃一丁に、弾薬をも隠していたが、それを日本軍の捜索隊に発見されて、自分たちのもであると自白した。

この元将校たちは、南京で掠奪した事と、ある晩などは避難民キャンプから少女たちを暗闇に引きずり込んで、その翌日には日本兵が襲ったふうにしたことを、アメリカ人や外の外国人たちのいる前で自白した。この元将校たちは戒厳令に照らして罰せられるだろう。

【よくある指摘】 棲霞山寺の僧が南京虐殺(ぎゃくさつ)を証言している

【反論】 バーナード・シンドバーグが報告を受けたに過ぎない

「南京安全区档案 第六十号 棲霞山寺よりの覚書」のなかに、「棲霞山寺は南京陥落前後から2万4000人もの避難婦女子を抱え、1月4日から日本兵がやってきて24件以上の強姦が起き、殺人は3件、略奪も多数起き、1月20日ころも女を求めてくる日本兵がいたが、日本軍が交代して好転した」と記述されていた。この覚書を国際安全区委員会に提供したのがバーナード・シンドバーグである。

これらは、バーナード・シンドバーグが「棲霞山寺の僧から聞いた」と主張しているに過ぎず、バーナード・シンドバーグ自身は、日本兵による民間人の虐殺を目撃した訳ではない。

そもそも、出所が「南京安全区档案」という時点で信憑性を疑うべきである。「南京安全区档案」は東京裁判に提出された資料であり、あえて分類するなら南京にいた宣教師の宣伝工作による文書である。

棲霞山寺の僧の名前が不明であり存在が疑わしい。寺の僧侶がどうやって2万4000人もの難民を養ったのかも不明である。「20名の有力者の署名もある」とされているが、中身については検証されていない。

スフィア基準に基づく目安から難民キャンプの広さは東京ドーム約1.8個分〜2.3個分の広さに相当するが、その中で、以下のような出来事を逃さず目撃することは不可能であり、少なくとも被害者による報告であろう。また、相手の言葉も分からないのに「ひまつぶし」などという当人しか分からない主観を含めることも疑わしい。

【引用】
『棲霞山寺の高僧の報告 1938年1月25日付』

2万4000人の難民が寺にいて、大半は女子供である。男は射殺されたか、拉致された。
1938年1月4日。日本兵がトラック一台にのってやってきて、牝牛を九頭盗み、中国人に屠殺させた。ひまつぶしに近所で数軒の家を焼いた。
1月6日。河岸から多くの日本兵が来て、ロバ一頭と寝具18枚を盗んだ。
1月7日。日本兵が一人の婦人と14歳の少女を強姦し、寝具を5枚奪った。
1月8日・9日。婦人6人が日本兵に銃剣で脅され強姦された。
1月11日。婦人4人が強姦され、酔っぱらった兵隊が寺をかけまわって、小銃を乱射し、多くの者を負傷させた。(民族名無記名)
1月13日。多くの兵隊が食糧を大量に没収し、母と娘を強姦。(民族名無記名)
1月15日。多くの日本兵が若い女10人を寺で強姦した。一人の泥酔した日本兵が酒と女を出せと要求した。酒は出したが、女は出さなかった。 彼は立腹して銃を乱射しはじめ、少年2人を殺し、また道ばたの一軒の家で70歳の老農婦を殺し、ロバを一頭盗み、家に火をつけた。
1月16日。強姦と略奪がくりかえされた。(民族名無記名)
1月18日。ロバが三頭盗まれた。(民族名無記名)
1月19日。日本兵が寺中を暴れまわり、戸や窓や家具をこわし、ロバを七頭盗んでひきあげた。
1月20日頃、別の分遣隊が到着して棲霞山鉄道駅の警備を交替しました。新しい中尉がきてから事態は改善され、寺にも警備兵が一人ついた。


そもそも、『ニューヨーク・タイムズ 1938年1月4』や、『大阪朝日新聞 1938年2月17日』によると、 一部の中国兵は、日本兵を装って強姦や略奪などの犯罪を犯したとする報道がなされており、上記の出来事が事実であったとしても、最早誰が犯人か分からないのである。

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