竹島問題

【よくある指摘】 竹島は歴史的に、韓国の領土である

【反論】 韓国は建国(1948年)以前の歴史を前提に領土を語ることができない

大前提として、韓国は「それまで国を支配していた政権が倒れ、新しい政権が誕生した事で生まれた国」ではない。

つまり、過去から継続して引き継いできた領土というものは存在しない。従って、厳密な意味では「過去に統治していた事を理由に現在の領有を主張する」という事自体ができない。

【よくある指摘】 各種文献で、竹島は韓国の領土と認めている

【反論】 認めていない

日本が竹島を編入する1905年前後及び、第二次世界大戦後の韓国の各種文献において、朝鮮の領土に竹島(独島)は含まれていない。

韓国(朝鮮)が認識していた東の国境ライン(東経)は以下の通り(竹島は 東経 131度52分)。
・『新撰朝鮮地理誌 1894年』130度35分
・『朝鮮紀行 1898年』130度33分
・『大韓地誌 1899年』130度35分
・『韓海通漁指針 1903年』130度35分
・『最新韓国実業指針 1904年』130度35分
・『韓国地理 1904年』130度58分
・『韓国新地理 1905年』130度58分
・『大韓新地誌 1907年』130度35分
・『朝鮮常識問答 1947年』130度56分
・『朝鮮常識 1948年』130度56分

【よくある指摘】 太宗実録で、竹島は韓国の領土と認めている

【反論】 それは竹島(独島)ではない

『太宗実録』の太宗17年(1417年)の項で最初に于山島の記述が出てくるが、「安撫使の金麟雨が于山島から還ったとき、大きな竹や水牛皮、芋などを持ち帰り、3人の住民を連れて来た。そして、その島には15戸の家があり男女併せて86人の住民がいる。」と報告している。

しかし、実際の竹島は0.2平方kmとニューヨークのセントラルパーク(3.4平方km)の10分の1に満たない岩ばかりの小島であり、 そのような竹島で86人もの住民が生計を立てていくのは不可能である。

したがって、『太宗実録』の記述が正しいのであれば、于山島が竹島を指すことはあり得ない。

【よくある指摘】 東国地図で、竹島は韓国の領土と認めている

【反論】 それは竹島(独島)ではない

東国地図の于山島は、欝陵島事蹟(1694年)の張漢相の認識を踏襲しており、北東に長細い一島と記載されているので、この島は竹嶼であり、竹島ではない。

【よくある指摘】 東国文献備考や東国輿地勝覧で、竹島は韓国の領土と認めている

【反論】 それは竹島(独島)ではない

『東国文献備考』は安龍福の証言をもとに編纂された。

その元となった『輿地志』では、「于山鬱陵本一島」(于山島と鬱陵島は同じ島である)と書かれている。

なお、『東国輿地勝覧』では、「鬱陵島から于山島が見える」と書かれており、高所へ行けば鬱陵島から竹島がかすかに見えるため、 竹島は韓国領という主張もあったが、これは1693年、朝鮮が鬱陵島を朝鮮領とする根拠に既に使われているため、ここで、『東国輿地勝覧』を持ち出すことは歴史的に矛盾することになる。

【よくある指摘】 世宗実録地理志で、竹島は韓国の領土と認めている

【反論】 それは竹島(独島)ではない

世宗実録地理志には于山のことが書かれている。

ソウル大学が公開している日省録には 鬱陵島周辺を調査した役人による1807年の報告書の中に、鬱陵島の北に于山島があり、 周囲は二、三里(韓国里で800m~1200m)との内容を示す「北有于山島周回為二三里許」(漢語) の記述がある。

よって、于山は、鬱陵島の北東にある小島と考えられる。

【よくある指摘】 欝陵島渡海禁止措置で、江戸幕府は竹島への渡航を禁止している

【反論】 竹島への渡航は禁止していない

1695年に幕府は鳥取藩に対し、鬱陵島と竹島が鳥取藩に属するのか確認し、「竹嶋松嶋其外両国之付属の嶋無御座候」(鬱陵島と竹島は鳥取藩に付属しない) と回答を得ていることが根拠だが、その後幕府は鬱陵島への渡航は禁止したが、竹島への渡航は禁止していない。

その後、幕府が米子の町人に与えた「渡海免許」には、「竹嶋(欝陵島)江先年船相渡之由候」と明記され、渡海を禁じた奉書には「向後、竹嶋(欝陵島)江渡海之儀、制禁可申付旨、被仰出候」と記されているが、現在の竹島については全く触れられていない。

その後の1833年には、浜田藩の八右衛門が竹島に渡航の名目で鬱陵島に渡って処刑された。 つまり、江戸幕府も竹島への渡航は許可していたことになる。

【よくある反応】 日本は竹島を鬱陵島の属島と見なしていたから、欝陵島渡海禁止措置で、幕府は竹島への渡航を禁止した

【反論】 竹島を鬱陵島の属島とは認識していない

まず前提として、幕府は欝陵島渡海禁止措置以前は鬱陵島への渡海を許可していた。

「鬱陵島と竹島はセットである」という指摘は、大谷・村川家が、鬱陵島のほか、松嶋(現、竹島)でも漁業に従事することになる経緯を述べた部分に 「竹嶋近辺松嶋」と「竹嶋之内松嶋」といった言葉が出るため、これを根拠に「日本は昔から竹島を鬱陵島の属島としてきた」としている。

しかし、この文脈の前後には「来年御手前舟、竹嶋へ渡海、松嶋へも初而舟可被指越之旨」(来年、竹嶋(欝陵島)に渡海する際、松嶋(竹島)へも初めて舟が送られ)、 「竹嶋渡海筋、松嶋への小舟の儀」(欝陵島への渡海の道筋に松嶋(竹島)がある)等の記述がある。

鬱陵島と竹島がセットなら、わざわざ竹島のことを個別に報告はしない。

【補足】
江戸幕府の動きを巡る出来事を時系列にするとこうなる。

① 江戸幕府:鬱陵島への渡海を許可する。
② 大谷・村川家:鬱陵島のほか、竹島でも漁業をやりたいです。竹島は鬱陵島へ行く途中の島です。
③ 江戸幕府:了解した。
④ 江戸幕府:鬱陵島と竹島は鳥取藩に属するか。
⑤ 鳥取藩:どちらも鳥取藩には属さない。
⑥ 江戸幕府:朝鮮との関係に配慮して、今後は鬱陵島への渡海は禁止する。
⑦ 八右衛門:(竹島へ行くふりをして、鬱陵島から木材を持ち帰る)
⑧ 江戸幕府:お前、竹島へ行くふりして、鬱陵島へ行ったろ。
⑨ 八右衛門:ヒィ!
⇒御用学者『大谷・村川家の資料によると、鬱陵島と竹島はセットだし、鬱陵島への渡航禁止から竹島への渡航記録もないから、竹島も日本領とは認識していないに違いない!』

【よくある指摘】 林子平の地図で、竹島は韓国の領土と認めている

【反論】 それは竹島(独島)ではない

林子平の地図に書かれている小島は、鬱陵島の北東(しかも、鬱陵島の近く)に書かれている。

しかし、竹島は鬱陵島の南東である。また、この地図には竹島と記載されているが、1785年当時、今の竹島は「松島」と呼ばれていた。

よって、鬱陵島の北東にある小島(竹嶼)と考えられる。

【よくある指摘】 日本輿地路程全図で、竹島は韓国の領土と認めている

【反論】 彩色では判断できない

日本の付属地で彩色がなされていないのは、鬱陵島や竹島だけではない。

鬱陵島や竹島と同様に、沖永良部島、青ヶ島、沖ノ島などにも彩色が施されていない。

しかも沖永良部島には「是より南百二十里、琉球国」とする付記があり、長久保赤水が沖永良部島を日本領と見なしていることが分かる。

従って、長久保赤水が鬱陵島や竹島を日本の領土として認識していたかどうかは、彩色の有無だけでは判断できない。

【よくある指摘】 隠州視聴合紀で、竹島は韓国の領土と認めている

【反論】 それは竹島(独島)ではない

隠州視聴合紀は「此州」を根拠無く、韓国が竹島であると勝手に解釈しているに過ぎない。

【よくある指摘】 大政官司令で、竹島は韓国の領土と認めている

【反論】 それは竹島(独島)ではない

大政官司令には「次に一島あり 松島と呼ふ」と書いてあるだけで、「外一島あり 松島と呼ふ」とは書いていない。

また、具体的に「松島」と書いて照会しているのだから、その返事に「松島」と記載しないで、わざわざ「外一島」にして返答しているのは不自然である。

米子の商人の大谷家が越後(新潟県)からの帰りに日本海で遭難して漂着したのが、この島(松島)であったと記している。

しかし、大谷家に関する文書では、漂着したのは現在の鬱陵島としており、太政官決定の文書にある竹島と松島は、ともに現在の鬱陵島のことが書かれていると解釈できる。

【よくある指摘】 1900年の勅令41号で、竹島は韓国の領土と認めている

【反論】 それは竹島(独島)ではない

勅令41に記載の「石島」の場所がはっきり書かれていない。しかも、1905年頃まで竹島は「独島」でもなく、「石島」でもなく、「リャンコ島」と呼ばれていた。

石島については、『皇城新聞』の1906年7月13日付の記事に書いてあるとおり、現在の竹島(独島)の位置とは、全く外れた領域に 石島の名前が出てきており、それが鬱島郡へ昇格している。

つまり、石島は現在の竹島(独島)ではなかったということになる。

【よくある指摘】 安龍福が竹島の領有を、江戸幕府に願い出ている

【反論】 それは竹島(独島)ではない

安龍福は鬱陵島と于山島を朝鮮領にするよう日本側へ願い出ているが、江戸幕府は交渉することなく安龍福を朝鮮へ追い返している。

しかし、朝鮮へ戻った安龍福は、なぜか「鬱陵島と于山島が朝鮮領になった」と証言している。

ではその于山島はどこにあるのかというと、安龍福は「鬱陵島の北東に見える島」であると認識していた。 しかし、竹島は鬱陵島の南東であり、これは鬱陵島の北東にある小島と考えられる。

尚、1834年の鬱陵島の地図(ソウル大学奎章閣所蔵)によると、「于山」と書かれた島が竹島(独島)と異なる位置に記載されている。

【よくある指摘】 江戸幕府は竹島への渡航を禁止している

【反論】 それは竹島(独島)ではない

『竹島一件』によれば、1696年、鬱陵島周辺の漁業を巡る日韓間の交渉の結果、江戸幕府は鬱陵島への渡航を禁じたが、竹島への渡航は禁じていない。

尚、『竹島一件』とあるが、当時は現在の竹島を「松島」と呼んでいる。

【よくある指摘】 欝陵島事蹟で、竹島は韓国の領土と認めている

【反論】 それは竹島(独島)ではない

張漢相は、東方五里に竹に覆われた島、また別に300余里内に現在の竹島らしき島を見ている。 この時、この島を見ただけで名前は分かっていない。

しかし1711年の調査で、東方五里にあり、竹で生い茂っている島が于山島(竹嶼)であることが分かり、以後1899・1900年の大韓地誌・大韓與地図まで記載されるが、 300余里内に見た島のことには触れていない。

【よくある指摘】 李奎遠が1882年に竹島(独島)を調査している

【反論】 それは竹島(独島)ではない

李奎遠が鬱陵島調査を行った1882年5月の時点でも、朝鮮側が鬱陵島の属島と認識していたのは傍らにある小島(竹嶼)までであり、今日の竹島には、その存在すら気づいていなかった。 さらに、『大韓地誌 1899年』と『大韓新地志 1907年』の記載には、鬱島郡の行政地域は東経130度35分までとされているが、竹島は東経 131度52分である。