韓国併合

【よくある指摘】 韓国併合によって、米を収奪された

【反論】 米不足の際、内地から朝鮮へ米を融通した記録もあり、朝鮮からの米の輸出は朝鮮側の都合

東亜日報では、日本から朝鮮へ米を送っていたという記録が存在する。

また、台湾総督府の史料によると、朝鮮→台湾への米の流れは少なく、台湾→朝鮮への米の流れが多い。

上記の「朝鮮ヨリノ移入高」は、朝鮮→台湾の米の動向である。
1932年(昭和7年):4510石
1933年(昭和8年):156石
1934年(昭和9年):512石
このように朝鮮から台湾への米の移入は、ほとんど無かった。

以下の通り、逆に、台湾から朝鮮への米の移入は多くなっている。

当時、台湾も日本領であり、当然ながら「日本が朝鮮の米を収奪したから台湾が助けた」という構図ではない。
1925年(大正14年):3万3806石
1929年(昭和4年):12万3861石
1934年(昭和9年):8万4841石


上記の「朝鮮ヘノ移出高」は、台湾→朝鮮の米の動向である。

上記を見ると昭和9年(1934年)に朝鮮米が内地米より高騰した時期がある。 朝鮮は高値の朝鮮米を商品として日本内地へ移出し、 自分たちは台湾から安い米を移入して消費していたという実態が浮かび上がってくる。

日本が豊作にもかかわらず、朝鮮総督府が、「朝鮮産の米を買ってほしい」と請願している。つまり、朝鮮の農家が高く売れる日本へ米を送った商行為でしかない。

日本国内では、韓国から輸入される米のせいで、米価が暴落して東北地方の経済は大打撃を受け、輸入禁止運動が起こった程である。

そもそも、国民が飢えてしまうほど米を内地へ送ったなら、韓国の人口と平均寿命が倍増しているのはおかしい。

【引用】
『東亜日報』(1935年8月21日)

日本内地払下米朝鮮へ逆移入。政府米払下を要望。

【引用】
『東亜日報』(1939年6月18日)

南朝鮮米断念し、新潟から白米移入。在庫米不足と価格暴騰で清津白米恐慌緩和。

【引用】
『歪められた朝鮮総督府』(黄文雄)

「日帝36年」の朝鮮統治で、米穀生産政策はもっとも朝鮮人に恩恵を施したものの一つであった。

有史以来、年産1000万石以上を一度も超えた事のなかった朝鮮産米生産量は、 昭和時代に入るとつねに2000万石を突披したのだ。

それは歴代総督が、食糧生産の充実と米穀生産性の向上に 並々ならぬ努力を重ね、土地改良、品種改良、耕法の改善、小作法の制定、 低利融資、米穀生産奨励などを行なって増産を重ね、 日本国内産米との競争によって品質向上に努めてきたからであろう。

朝鮮産米の対日輸出は、日本内地の食糧不足の救援に 大きな役割を果たしたことは事実であったが、 もう一方では日本農民の競争者となり、国内の米価低落に拍車をかけ、 内地の農家に脅成と圧迫を与えた。

とくに昭和5、6年の恐慌以後、いわゆる外地米統制問題として浮上し、 朝鮮総督府と日本政府との間の対立をもたらしたほど発展していた。

【引用】
『韓国・朝鮮と日本人』(若槻泰雄)

もう一つ付け加えねばならぬことは、朝鮮米の輸入を、短期間の一時期を除き日本政府は望んでいなかったという事実である。 1918年の米騷動を契期に日本内地において米の不足が痛感され、総督府は1920年から15年間に135万トンの増産計画にとりかかったのだが、世界大戦後の不景気により、米価は下落の一途をたどった。 (中略) このような状況にもかかわらず、朝鮮で増産された米は日本内地に流入し、 ことに1927年の内地朝鮮を通ずる大豊作は米価をさらに下落させ、 内地の農民の窮迫化を招き、一大政治間題にまで発展した。 1931年には、米の価格は1919年の実に40%に崩落した。

このため昭和初年、朝鮮米の内地移入を制限しようとする農林省と、 これに猛反対する朝鮮総督府との間に激烈な論争がくり返されることになる。

【よくある反応】 朝鮮の米の増産以上に日本への米の移出量が多く、満州からの粟の輸入量が増えているから収奪

【反論】 所得向上のための合理的な判断に過ぎない

【引用】
『韓国・朝鮮と日本人』(若槻泰雄)

朝鮮における米の増産以上に朝鮮から日本への米の移出量が増加し、また満州からの粟の輸入量が増大している統計が示されて、一見説得力があるかのごとく見える。

『朝鮮の飢えによって、日本人の食料が充足された』のであって産米増殖計画は、実は『米取り上げ政策』に他ならないというのである。 しかしながらこの批判は、仮に当たっているとしても15%ぐらいしか正しいといえないであろう。

というのは為政者として、農民の所得水準を上げようとするとき最大の悩みは、何を植えさせるべきかということである。 そして、その際考慮すべきことは、農業生産的見地からその土地に何が適当かということと、その生産物に対して、市場が存在するのかという農産物流通上の問題である。

米は朝鮮においては従来最も多く栽培されてきたものであって、自然条件がこれに適し、農民はその技術に最も習熟している、 そして日本内地という市場はきわめて近い。米の増産を図ったのは、為政者として賢明というよりは当然の方針というべきである。

米を作って日本へ移出したことだけを責められるが、その見返りとして、朝鮮の農民が現金収入を得たことを無視してはならない。 戦争中の食糧難の折り、内地におけると同様、強権をもって朝鮮の農民から米を供出させた事実はある。

しかしこのことと、大正時代に始まった産米増産政策とは直接の関係はなく、別個の問題として取り上げるべきであろう。

また朝鮮の農民は米を日本内地へ移出し、自らは粟を食べる結果になったということも、これ自体として非難に当たらない。

市場性のある、すなわち価格の高いものを販売し、安いもので我慢するというのは、農民の、少なくとも貧農のごく普通のパターンである。

米を作っていた日本の農民が、米はお祭りの時ぐらいしか食べず、麦や稗(ひえ)を食べていたことはよく知られている。 『米を売り、粟を買って食料とした』という事実は、自ら収穫したものだけを食べる自給自足段階にあった朝鮮農民が、 高いものを売り、安いものを買い、その差額で食料以外のものを購入して生活水準を上げるという市場生産に参加する農民に脱皮したことを意味するのである。

なお朝鮮農民が食料として『満州から粟を輸入した』というと、はなはだしく困窮化した状況を示すものとしてとられやすいが、 北鮮ではもともと粟を食することが多く、米よりも雑穀の栽培面積のほうがずっと多かったのである。